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クライマーズ・ハイ17
日期:2018-10-19 13:34  点击:297
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 大部屋は閑散としていた。
 局長室を出た悠木は亀嶋整理部長の背中を追った。日航の「お詫び広告」を紙面から外せと怒鳴りつけた昨夜のことを謝っておきたかった。理由はともかく、「大部屋の良識」とでも言うべき亀嶋に当たり散らしたのは、悠木自身、常軌を逸していたとしか思えなかった。
「カクさん──」
 振り向いた亀嶋の表情は険しかった。
「何だい?」
 悠木は小さく頭を下げた。
「すみません。ゆうべはどうかしてました」
「いいよ」
「以後気をつけます」
 亀嶋は鼻から荒い息を出した。
「そんなことはいいって言ってるだろ。それより、さっきのアレ何だよ?」
「えっ……?」
「会議だよ。どっちでもいいって言いぐさはないんじゃないの。あんたがこの事故の責任者だろう。最初からずっとやってるんじゃないか。可愛くないのかよ」
 喉元に苦い汁を感じつつ、悠木は自分のデスクに戻った。
 可愛くないのかよ──。
 そう言える亀嶋を心のどこかで羨んでいた。疑ってもいた。どうやれば他人事にああまで思い入れることができるのか。
 入社以来、亀嶋は整理部一筋だ。記者のように表を出歩くことはない。ずっとこの大部屋にいて、来る日も来る日も「今日」と取っ組み合いをしている。だからかもしれない。外で生身の人間と接する機会がないからこそ、この部屋に舞い込んでくるニュースの体温を感じ取ろうと常に五感を研ぎ澄ましている。
 どっちがトップでも構わないと思います──。
 胸が微かに疼いた。
 悠木は短い息を吐くと、机の上をざっと片づけた。まだ十一時前だが、既に共同から大量の事故関連記事が送られてきていた。その記事の山に埋もれていた大判の写真が目にとまった。遺体安置所に充てられた藤岡高校体育館の内部の写真だった。ゆうべマスコミに公開されたが、本社にネガが到着するのが遅れて朝刊に入れ損ねた。
 白い柩が整然と並んでいる。その上に名札と花束が置かれている。市民体育館で身元確認作業を終えた五十一遺体のうち、四十三遺体がここに収容されたのだ。
 写真を見つめるうち、悠木はハッとした。
 これは……。
 昨夜は気にもとめなかったが、中央の扉の両脇に二つの花輪が写っていた。キャビネ判に引き伸ばされた写真だから、花輪の寄贈者の名前まではっきり読み取れた。右側が「元内閣総理大臣 福田赳夫」。左は「内閣総理大臣 中曾根康弘」。
 思えば二人の地盤だった。群馬三区は高崎市を中心に県内の西部地域を占めている。日航機が墜落した多野郡上野村も、遺体が安置されている藤岡市も、ともに三区のエリア内なのだ。
 奇異な写真だ。改めて見つめてみてそう思った。花輪が体育館の外でなく、館内の壁に立てかけられているからだ。マスコミが写真撮影を許可された場所の正面に──。
 またしても喉に苦い汁が込み上げてきた。
「おはようございます」
 明るい声とともに、湯呑み茶碗が差し出された。礼を言う間もなく、もう依田千鶴子はスカートの裾を翻《ひるがえ》していた。大きなトレイの上には隙間なく茶碗やコーヒーカップが載っている。そろそろ局内に人が増えてきたということだ。
 悠木は湯呑みを口に運んだ。苦い汁は消えてくれたが、すぐに原稿を読み始める気にはなれなかった。
 机の上の朝刊を捲った。一発で目当てのスポーツ欄を開いた。こんな時、この職業に就《つ》いて長くなったのだと感じる。
 阪神はやはり負けていた。巨人相手に三対四。真弓は四打数一安打──。
「ホントに優勝するかもな」
 声に顔を上げると、デスクに岸が戻ったところだった。すれ違い様に千鶴子から受け取ったらしく、特大のマグカップを手にしていた。
「負けたんだぜ、昨日も」
 悠木が言うと、岸は阪神ファンを気取って口を尖らせた。
「五連勝の後の二敗だ。痛くも痒くもないさ」
「そうこうするうち奈落の底へ。いつものパターンじゃないのか」
「この隠れ巨人め」
 追村次長の口真似をして岸は笑った。ご多分に洩れず、群馬も読売の凄まじい拡販攻勢に晒されている。北関の社内で巨人ファンだなどと口にしたら売国奴呼ばわりされるのがおちだ。
「けど、お前のところの下の……えーと、由香ちゃんか。確か阪神ファンだって言ってたよな」
「真弓ファンだ」
「そうそう、日本中の女房と娘はみんな真弓ファンだ」
 岸はまた笑ったが、マグカップをデスクに置くと、真顔になって声を潜めた。
「なあ、由香ちゃんはどうだ?」
「何がだ?」
「お前のこと、汚いとか言いださないか」
 悠木は内心ビクッとした。
「何だよ、藪から棒に」
「いやさ……」
 岸は顔を顰《しか》めて舌打ちした。
「ほら、よく言うだろ。初潮の影響だかなんだか知らないが、娘は五、六年生ぐらいになると父親を嫌うって」
「カズちゃんがそうなのか」
 会ったのは一度きりだが、写真は飽きるほど見せられている。
「下の史子《ふみこ》もだ」
「幾つになった?」
「中一と小六。まったく哀れなもんさ。俺なんかバイ菌扱いだ。家に帰ると、二人してヒキタテンコーみたいに姿を消しちまう」
 冗談めかした物言いとは裏腹に、岸の表情は消沈していた。
「この先ずっと、ってわけじゃないんだろ」
 悠木は言った。気遣い半分、情報を得ておきたい気持ちも働いていた。
「みんなそう言うけどさ、何の保証もないからなあ。ずっとあのままだったらどうするよ。ホント、泣きたくなるぜ」
「ん」
「まったく、あんなに可愛がって育てたのによ。やっぱり男がいいよな。お前のところが羨ましいよ」
 悠木の頭は別の話題を探したが、一瞬岸が速かった。
「淳君、ウチのカズと一緒だよな。でっかくなったろう?」
「ああ、図体だけはな」
 言って、悠木は目を逸らした。
「まあ、お前のところは由香ちゃんも平気かもな。あの子はめちゃくちゃいい子だ」
「そんなことはないさ」
「いい子だよ。けどな、ウチのカズやフミだって四年生の時までは──」
 岸が言い掛けた時、追村次長がこちらに歩いてくるのが目に入った。
「おい、岸」
 追村は不遠慮に岸の机の角に尻をのせた。
「さっきはお前の意見を聞き損ねちまった。一応、聞かせとけ」
 悠木は座っていた事務椅子を半回転させて横を向いた。会話の窮地を救われた恰好になったが、佐山の原稿を潰した張本人の顔など見たくもない。
 岸は中曾根寄りの発言をしているようだった。無理からぬことだ。岸は以前、中曾根首相の外遊に特派員として同行したことがある。
 岸の自宅の居間に飾ってあった、首相と岸のツーショット写真が思い出された。政府専用の特別機の機内で撮られたものだ。官邸サイドの記者サービスというわけだが、その写真を目にした悠木は、こんなものを自慢げに飾りやがってと岸の権威意識を内心軽蔑したものだった。
 さっき岸から娘の話を聞かされて、その思いが幾らか変化した。首相とのツーショット写真は、テレビの上に、娘たちの写真と並べて飾ってあった。来客に見せつけるためのものではなかったのかもしれない。日々家族に見せていた。男なら誰だってそうだ。せめて自分の女房や子供ぐらいには尊敬されていたい──。
「まあ、日航もちょっと食傷気味だしな」
 声に目だけ向けると、追村が歩き出したところだった。
 食傷気味……。
 嫌な言葉だと悠木は思った。
 大部屋には、続々と局員が集まり始めていた。まもなく締切のタイマーがセットされる。
 どっちがトップでも構わないと思います──。
 悠木は落ちつかなかった。こんな中途半端な気持ちで「今日」を迎えるのは初めてのことだった。
 

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