18
昼食は地下の社員食堂で済ませた。
大部屋に戻った悠木はデスクについて受話器を取り上げた。県警の佐山と川島のポケベルを呼ぶ。
応答を待つ間、朝刊の日航関連記事に改めて目を通した。
一面。トップの主見出しは≪百二十一遺体収容 身元確認は五十一人に≫。ソデは≪原因は尾翼付近の破損か≫。頁を次々捲っていく。悠木がトップ用に提案した連載企画『墜落の山・御巣鷹』の初回原稿は、第二社会面に回されて惨めな姿を晒していた。怒りと自責の念がぶり返す。しかし、だからといって今さら一面に復活させることもできない。連載企画は、いわば「死産」してしまったようなものだった。
先に電話を寄越したのは佐山だった。
〈呼びましたか〉
距離を感じさせる冷えた声だった。
「そっちからは何が出る?」
事務的に用件を告げた。
〈県警が例のアシスタントパーサーから事情聴取しました。五十行ほど書きます〉
「早かったな」
〈日航に先手を打たれましたから。幹部はかなり怒ってました〉
「そうだろう。あれは捜査妨害だ」
〈そうですね〉
よそよそしい佐山の返答が嫌な間を作った。
「今、県警か」
〈ええ、記者室です〉
「川島はそこにいるか」
〈いえ、出てます〉
「顔を見たら連絡するよう言ってくれ。やつはポケベルの反応が遅い」
〈わかりました〉
悠木は置いた受話器を見つめた。佐山が取材意欲をなくしていることは明らかだった。無理もない。渾身の現場雑観をあっさりと踏みにじられたのだ。
テレビ画面には政府主催の全国戦没者追悼式の様子が映し出されていた。川島の気弱な声を聞いたのは、その追悼式典も終わろうかという頃だった。
〈川島です……〉
「原稿は何時ごろ出る?」
〈えっ……?〉
「連載の第二回だ。あんな形になっちまったが、潰れたわけじゃない」
〈あ、それなら神沢が書きます〉
悠木は一瞬耳を疑った。
「どういうことだ? お前に書けと言ったはずだ」
〈………〉
「お前がサブだろう。何で三番手の神沢が先に書くんだ?」
〈それは……〉
川島は口を濁した。
聞かずとも想像はついた。神沢は佐山とともに北関で御巣鷹山の一番乗りを果たした。一方の川島は山に入ったものの力尽き、現場を踏まずに撤退した。そのことがサブと三番手の力関係を逆転させたのだ。
「川島、お前が書け」
〈………〉
「五時までに出せ。いいな」
悠木は一方的に電話を切った。
川島は北関を辞めることになるかもしれないと思った。仕事ばかりか、ポジションまで下の者に食われてしまった記者は生き残れない。
悠木は顔を上げた。
テレビの前に人だかりがしている。すぐに靖国だとわかった。モーニング姿の中曾根首相が厳かな足取りで神社本殿の階段を上がっていく。藤波官房長官と増岡厚生大臣を伴っている。階段の最上階で足を止め、深く一礼した。
画面を見つめる粕谷局長の表情は硬かった。トップを日航にするか靖国で作るか、まだ決めかねている顔だ。
目の前の電話が鳴った。
相手は玉置だった。北関の記者で唯一の工学部出身者だ。藤岡支局の戸塚と配置替えして、上野村入りしている運輸省航空事故調査委員会のメンバーをマークさせている。と言っても、玉置が大学で航空工学を学んでいたわけではない。特ダネを期待するというよりは、北関一社だけが重要情報を掴み損ねる「特オチ」を防ぐために配置したというのが本当だった。
が、玉置は驚くべきことを口にした。
〈事故原因が大体わかりました〉
すぐには言葉が出なかった。それが本当ならば大スクープになる。
悠木は椅子を引いた。
「言ってみろ」
〈圧力隔壁が破壊されたんです〉
初めて聞く用語だった。
「何だそれは?」
〈与圧隔壁とも言うんですが、航空機の後ろのほうにある半球状の壁です。この壁で客室内の気圧を支えています〉
「それで」
イメージが湧かないまま話の先を促した。
〈上空の高いところを飛行する時は、客室内の気圧を高めます。つまり、外気と比べて室内が高圧になっているわけです。当然、隔壁には中から外に向けて相当の荷重が掛かることになります〉
悠木の脳裏には七三分けの生真面目そうな顔が朧げに浮かんでいた。群大工学部出身。前橋市政担当の三年生記者。知っているのはそれだけだ。
「難しいことは後でいい。取り敢えず結論を言ってみろ」
〈要するに、その荷重が隔壁を破壊したということです。隔壁が破れ、客室内の空気が内部から尾翼を吹き飛ばしたんだと思います〉
思います……?
悠木は声を落とした。
「事故調の調査官から聞いたんじゃないのか」
〈あ、ええ……。調査官たちが『隔壁』と口にするのを聞いたんです〉
「取材したんじゃなく、立ち聞きしたってことだな?」
〈ええ、まあ……〉
「隔壁が破れた、とは言わなかったのか」
〈そこまでは言いませんでした〉
自然と肩が落ちた。
すべて玉置の推測にすぎないということだ。しかし、万一ということもある。
「今夜、宿屋に忍び込んで調査官にぶつけてみろ」
〈それは、ちょっと難しいです。各社が大勢張ってますから抜け駆けはできない状況です〉
「無理にでもやってみろ」
発破を掛けて受話器を置くと、悠木は隣の政治部デスクに顔を向けた。
「岸──」
「何だ?」
「ウチは運輸省のクラブに誰か加盟してるのか」
「いや、いない。前は入ってたこともあったんだがな」
「そうか……」
ならば、やはり上野村に泊まり込んでいる事故調のメンバーを当たるしかない。玉置一人に任せておいて大丈夫か。
悠木は地方部デスクに足を向けた。寝癖であちこち突っ立った剛毛が山田のトレードマークだ。
「なあ山田、前橋の玉置ってのはデキるのか」
「玉置ですか……。ちょっと掴み所のない男でね。まあ、可もなし不可もなしといったところです」
悠木はデスクに戻り、電話に目を落とした。佐山しか聞く相手はいなかった。玉置の記者としての資質。力量。獲得情報の信頼度──。
迷ううち、背後から名前を呼ばれた。
粘っこい声だった。悠木は内心舌打ちして振り向いた。伊東販売局長がすぐ後ろに立っていた。
「ちょっといいかい?」
「何でしょう?」
「十五分ほど付き合ってくれないかなあ」
伊東は口髭を撫でながら言った。
悠木は難しい顔を作って壁の時計を見やった。
「そんじゃあ十分でいいからさあ。安西君の件でちょっとね」
悠木は顔色を変えた。
「病状に変化でも?」
「いやあ、そうじゃないんだけどさあ」
ネチャネチャ言いながら、伊東はドアのほうに顔を向けた。
二人で廊下に出た。
自動販売機コーナーのソファで話すのだとばかり思っていたが、伊東はその前を通り過ぎて階段を下りた。その自信あり気な態度と身勝手さが悠木を不安にさせた。やはりこの男は、死んだ母の秘密を知っているのか。
伊東は一階に場所を用意していた。営業の人間が商談で使う小さな応接室だ。促されて悠木はソファに座った。伊東が何かを企んでいるのは確かなことに思えた。
「いやあ、まったく参っちゃったよ。安西君の抜けた穴は大きくってさあ。いまね、三人掛かりで埋めてるんだ」
悠木はしばらく黙って聞いていた。案の定、伊東の話に用件と呼べるものはなかった。
これみよがしに悠木は腕時計に目を落とした。
「もう十分経ちました。用がなければ戻りますが」
伊東は慌てるでもなかった。
「まあまあ、そう急ぎなさんな。ちゃんと話すからさあ」
「今日はべら棒に忙しいんです」
その言葉を待っていたかのように伊東は身を乗り出して指を組んだ。
「中曾根の参拝でかい?」
悠木は尖らせた目で伊東を見つめた。
専務派の斥候《せつこう》。そんなフレーズが頭を駆け抜けた。
伊東は糸のように目を細めて笑った。
「ほら、ウチもアレと一緒だから──ビルの谷間のラーメン屋」
衆院群馬三区。「福中」の狭間で常に苦戦を強いられている小渕恵三の口癖だった。その小渕の立場を北関に準《なぞら》えた伊東は糸の目のままで言った。
「ウチの紙面はどう扱うの?」
悠木はもう驚かなかった。
伊東は飯倉専務から編集局の動きを聞き出すよう命じられて悠木を呼び出した。言い換えるなら、悠木は「情報源」として専務派に選ばれたということだ。
なぜ俺なんだ?
見くびられたということか。編集局のはみ出し者と踏まれたか。それとも、伊東の部下である安西とつるんで山に出掛けていたからか。
確信めいた思いが胸に浮かんだ。おそらくそうだ。安西も専務派の一人だった。伊東のことを「命の恩人」と崇めていたではないか。右腕のような存在だったに違いない。悠木はその安西と親しくしていたから目を付けられたのだ。自分が知らぬ間に「専務派」のレッテルを貼られていた──。
「どうしたね、そんな怖い顔してさあ」
「………」
「で、どうなの? 参拝はトップ記事にするわけ?」
悠木は伊東の細い目を見据えて言った。
「そんなことを聞いて何のメリットがあるんです?」
決まっている。福田サイドに流すのだ。いや、実際には福田の威を借る狐どもに吹き込む。明日の朝刊が出る前に、こんなふうな記事が載りますよ、と茶坊主するのだ。取るに足らない情報だが、新聞記者をしていればわかる。愚にも付かないC級D級の情報を潤滑油にして仲間を形成している連中がいる。ちっぽけな情報を流してちっぽけな恩を売る。その繰り返しが義理を生み、果ては信頼や信用に化けるのだ。
悠木は席を立った。
その悠木を見上げて伊東が言った。
「それはそうとさあ、昨日は随分と派手にやったらしいね」
「何がです……?」
「社長室だよ」
すべてお見通しということか。
「君もわかったろう? 白河ってのは最低の男だよ。あんな色狂いに会社を任せておけないんだ」
「………」
「白河がいる限り、君の出世だってないわけさ。いやあ、昨日みたいなことやったら、秋には栃木に飛ばされるかもなあ」
悠木は伊東を見下ろした。
「自分を売り飛ばすよりはましでしょう」
踵を返し、ドアに向かった。とりわけ粘っこい声が追い掛けてきた。
「君さあ、昔、中新田町に住んでなかったかい?」
悠木は足を止めた。
ゆっくりと首を回した。獲物を見つけた猫のような丸い目がこっちを見ていた。
直視できず、悠木は目を逸らした。
刹那、母の白い背中が見えた。勝手口から背中を丸めて出ていく、ずるい目をした男たちが見えた。