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クライマーズ・ハイ22
日期:2018-10-19 13:37  点击:418
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 日付は十六日に変わっていた。
 大部屋は帰り支度をする局員がわずかばかりいるだけで、テレビの音声がはっきり聞き取れるほど静かだった。事故発生後、四回目の朝刊を送り出した。まもなく輪転機が轟音を立てて廻り出す。
 悠木はデスクの上の残り原稿をチェックしていた。耳には亀嶋整理部長が帰り際に掛けていった陽性の台詞があった。もうこの際、日航で連続トップ記録つくろうや──。
「軽くいくか」
 隣の岸がお猪口《ちよこ》の手で言った。
「いこう」
 悠木は即答した。家に帰りたいような、そうでないような気分だったから、天秤の片方の皿にひょいと分銅を置かれたような気がしたのだ。
 まともな紙面ができた。そんな思いが悠木の心を少しばかり浮き立たせてもいた。昨日までは五里霧中だった。降って湧いたような巨大事故に呑み込まれ、翻弄《ほんろう》され、自らの存在のちっぽけさを思い知るばかりで新聞作りをしている実感がまるでなかった。
 今日は違った。あの母親と会って変わった。紙面のそこかしこに悠木の「手」と「思い」が入った。あの事故を飼い馴らせるなどと自惚れるつもりもないが、手綱には触れた、指先が掛かった、そんなささやかな自負心と達成感が悠木の胸にあった。
「悠木、もう出られるか」
「とっくにOKだ」
 灯の落ちた階段を二人で下りた。
「そういやあ、神沢はどうしたよ」
 岸が思い出したように言った。
「宿直室に行ったきりだ。あのまま寝ちまったんだろう」
「何か話したのか」
「ああ、ぽつりぽつりな」
「大丈夫そうか」
「と思う」
「丸二日食ってなかったとはなあ……」
「ん」
「そういう現場だったってことか……」
「だろう」
 悠木は暗い足元に気を向けながら神沢を思った。
 御巣鷹山で生まれて初めて死体を見た。神沢はそう吐露した。宿直室で素の顔に戻ってからのことだった。ぼんやりとした表情で訥々《とつとつ》と語った。これまで人の死と遭遇したことがなかった。両親も祖父母も健在だ。警察廻りになって三年、事件や事故の現場は散々踏んだが、不思議なことに死体を目にする機会がなかった。死体を見たい。ずっとそう思っていたのだとも言った。死体を見たこともないサツ記者なんて恰好がつかない。下の者に示しがつかない。そんな思いが強かったのだという。願望は想像を絶する形で叶った。あの御巣鷹山の現場で──。
 外は、顔を包み込んでくるような暑気だった。
「ひゃあ、この時間になってもかよ」
 岸が解放感たっぷりに言った。
 申し合わすでもなく二人は安中《あんなか》県道を小走りで横切り、通りの角の「総社飯店《そうじやはんてん》」に足を向けた。在日韓国人の夫婦が昔からやっている小さな焼肉店だ。この界隈でこの時間から飲み始めようとするなら、まずここしか頭に浮かばない。
「や、悠ちゃんはサムライだなあ」
 悠木の顔を見るなり、「おやっさん」は皺に沈んだ目を見開いた。悠木が日航機事故のデスクになったことを小耳に挟んでいたのだろう。その忙しい最中によく飲みに出る気になったものだと感心している顔だ。
 悠木は軽口を返さなかった。すぐ右手の座敷に等々力社会部長の姿を見つけていたからだった。田沢と差向いでビールを飲んでいる。
 岸の横顔を見た。惚け顔だ。
 悠木は舌打ちした。昨日、悠木と等々力は局内で派手にやり合った。騒ぎを耳にしていたはずの岸がそのことには一言も触れず、知らぬ顔を決め込んでいるのでおかしいとは思っていたが、なるほど、裏で手打ちの会を企画していたというわけだ。
「まあ、座ろうや」
 邪気なく言って、岸は悠木を座敷に促した。
「くだらねえ真似しやがって」
 悠木は押し殺した声で言った。このまま帰ってしまおうとも考えたが、それはそれで尻尾を巻いて逃げるようで癪《しやく》だった。
 等々力のほうも突然現れた悠木をブラウンのレンズの奥から意外そうに見つめた。田沢は承知していたようだった。部長をここに誘う役を岸に頼まれたのだろう。グルには違いないが、田沢に限って悠木と等々力を握手させようなどと考えるはずがない。さては酒席で二人の関係がさらに拗れることを期待しての臨席か。
「ビン?」
 おやっさんがカウンターの中から声を掛けてきたので、悠木は「ナマにして」と答えた。等々力と田沢はコップでやっている。悠木は長居をする気はなかった。
 店内の空気は田沢の期待に十分応えそうなものだった。悠木は無言で座敷に上がり、等々力とテーブルを挟んだ、斜め向かいの座布団にどっかと腰を降ろした。
 昔はこのメンツでよく飲んだ。等々力は県警のサブキャップ。悠木、岸、田沢の同期三人組はまだ駆け出しの兵隊記者で、日々、等々力と、その上の追村キャップに怒鳴られていた。
 おやっさんが生ビールのジョッキを持ってきた。
「少し焼くかい?」
「じゃあ、ホルモンお願い」
 応じた岸に等々力が顔を向けた。
「お前にしては名案の部類だな」
「はい?」
 岸がわけも判らずニコリとした。
 等々力は真顔で言った。
「座敷なら土下座もしやすいってことだ」
 悠木はキッと等々力を見た。
 そっぽを向いている。顔がやや赤らんでいるが、酔っているわけではなさそうだった。等々力と田沢はともに「十時あがり」だった。既に二時間ほど飲んでいる計算になるが、ビールで酔っぱらうようなヤワな男ではない。
「謝る理由がありません」
 悠木はぶっきらぼうに言った。
 等々力が何も言いださなければこちらも黙っていようと思っていたが、のっけから昨日の土下座話を蒸し返されて悠木の腹も固まった。
 等々力が金縁眼鏡を外した。
「あるだろうが、ゆうべの暴言だ」
「ま、取り敢えず乾杯だけ」
 岸が勢いよくコップを突き出したが、それを無視して等々力は続けた。
「悠木、お前、俺に向かって何て言ったか覚えてるか」
「大体は」
 二人はテーブルの対角で睨み合った。構わず、おやっさんが鉄板にホルモンを並べていく。
「大体じゃ話にならんな」
 煙の向こうで等々力が言った。冷静な口調だ。
「次長が御巣鷹山の企画を一面から外した。お前は俺が外したと勘違いして食って掛かってきた。若い連中が大勢いる前で俺のことをテメエ呼ばわりした──事実関係はこうだ。違うか」
 悠木は目線を鉄板に落とした。
「なぜ謝らん? 非は明らかにお前にあるだろう」
「なあ、悠木」
 岸が口を挟んだ。
「確かにそこのところはお前が悪いと思うぜ。早とちりだったんだからな」
「黙ってろ」
 等々力が岸を睨んだ。その目を悠木に戻す。
「お前、何か思い違いをしてるんじゃないのか」
「思い違い? どういうことです?」
 悠木が聞き返すと、等々力は手にしていたコップのビールをあおり、言った。
「僻み根性もいい加減にしやがれ──お前は昨日そう言った。あれはどういう意味だ?」
 悠木も生ビールのジョッキを口元に持ち上げた。
「言葉通りの意味ですよ」
 一口飲み、続けた。
「部長は前の日、佐山の現場雑観を無にした。世界最大の事故を羨《うらや》み、僻んだ」
「なぜ俺が僻む?」
 等々力は田沢からのビールを受けながら言った。
「部長にとっちゃ大久保連赤がすべてだからですよ」
「当たり前だ」
「日航はデカすぎた。大久保連赤は完全に霞んじまったんだ」
 二人同時にビールをあおった。
 等々力が先にコップを置いた。
「それが理由で俺が佐山の原稿を潰した、っていうわけか」
「俺に輪転機の不調を教えなかった」
「それが思い違いだって言ってるんだ」
「だから、その思い違いっていうのは何です?」
「輪転のことを教えてたとしてどうなった? その頃、佐山と神沢は御巣鷹山の上だったんだ。ウチには無線もない。どのみちお前は締切が早まったことを連中に伝えられなかったろうが」
「俺はね」
 悠木はジョッキを空けた。
「理屈じゃなく、腹の中の話をしてるんですよ」
「誰の腹だ?」
「理屈から言いましょう──輪転の不調は夕方にはわかってた。その時に俺が聞かされてれば、共同を拝み倒して無線を数秒借りて、御巣鷹にいた共同の記者に伝言を頼めた──締切りは延びない──それだけ佐山に伝えればよかった。佐山は逆算して早く山を下りる。零時前に雑観は届き、翌朝の北関には佐山と神沢の名が太字で載った」
「そううまく事が運んだと思うか? 共同は一秒だって無線を貸さなかったかもしれん。よしんば借りられたとしても、山の上で共同の記者と佐山が会える保証はなかった。急いで下山するといったって真夜中の山だ、果して零時に間に合ったかどうかもわからない。要するに、よほどの奇跡でも起こらない限り、北関に佐山の雑観が載ることはなかったってことだ」
 語るに落ちた──。
 口の中で言ったつもりが声になっていた。
「何だと?」
 等々力が目を剥いた。
「ちゃんと説明しろ。何が語るに落ちたんだ?」
 もはや悠木も引く気はなかった。
「いまあんたがゴチャゴチャ言ったことですよ。あんたはあの晩も腹の中で同じことを考えた。俺に輪転の件を伝えなくても、後でどうとでも言い訳ができると思った」
「あんたはよせ」
「確かに奇跡でも起こらなけりゃ佐山の雑観は載らなかった。だが、奇跡が起こる可能性はゼロじゃあない。だから、あんたは──」
「あんたはよせと言ったろう!」
「そっちが売った喧嘩だろう! 最後まで聞け!」
「吠えるな、小僧!」
「あんたはその奇跡の芽を摘んだ。大久保連赤が可愛いばっかりに佐山の雑観をパーにしちまったんだ」
「悠木ィ!」
 等々力はテーブルに拳を落とした。
 悠木は胸を突き出した。
「なぜ邪魔をした? 若い連中に勝たれたくなかったからか? あんたらが──俺たちが──大久保連赤で惨敗したからか」
 等々力の目が二倍ほどにも見開いた。
 岸もそうだった。田沢も首を回して悠木の横顔を見た。
 等々力の口がゆっくりと動いた。
「俺たちが……負けた……? 何に……?」
 話が一線を越えたことはわかっていた。
「大久保連赤」で負けた──悠木も初めて口にすることだった。
 岸が怖いものでも見るような顔で言った。
「悠木、言えよ。何に負けたんだ?」
「決まってるだろう。朝毎読と産経だ」
「勝ったろう……?」
「そいつは都合のいい記憶ってやつだ」
「勝ったじゃねえか。ウチは散々抜いたぜ」
 今度は田沢が言った。こめかみに青筋が立っていた。
 悠木は田沢を見た。
「何本かはな。だが、その何倍も抜かれた」
 岸が首を捻った。
「その逆だろう? そりゃあ、何本かはやられたさ。けど──」
「本当に忘れちまったのか」
 悠木は岸と田沢を交互に見た。「負けた」と口にすることはタブーなのだと悠木はずっと思っていた。だが、違うのか。岸も田沢も本気で「勝った」と信じ込んでいたというのか。
 悠木は宙を睨んだ。
「お前らが言ってるのは大久保の前半だ。確かに最初はバンバン抜いたさ。だが、事件が大きくなって他社の本社の連中が乗り込んできてからは引っ繰り返されたじゃねえか。肝になるネタはみんな書かれちまった。それでも大久保はまだいい。連赤はくそみそにやられた。中央で警察庁ネタがボロボロ出て、こっちは手も足も出なかった。完敗だった──北関は東京に負けたんだ」
 座敷は沈黙した。
 夕方、神沢が悪態をついた通りだった。事件の終盤、北関の警察廻りは勇躍「あさま山荘」に乗り込んだ。だが、ただ遠くから見学していただけだった。その前年に発売されたカップヌードルの旨い作り方を覚えたのが唯一の収穫だった。神沢はすべてを直感で見抜いていたのだ。
 田沢が口を開いた。
「あさま山荘で何もできなかったのは確かだが、あれは長野の事件だ。やられても仕方ねえ。けど、榛名や妙義のアジトの件はいい勝負をしたはずだぜ」
「共同がな。俺たちは何もできなかった。山の中をウロウロしてただけで、まともなネタは書いてねえ。体はきつかった。寒さと眠気で本当に死ぬかと思った。だから俺たちは錯覚したんだ。中央の記者連中と対等に戦っていたって──」
 ピシャッ。
 悠木は顔を背けた。
 コップのビールを浴びせられていた。等々力だった。赤鬼のような形相で悠木を睨んでいた。真一文字に閉じていた口が開き、怒声が迸《ほとばし》った。
「悠木ィ! 作り話も大概にしやがれ!」
「作り話じゃない」
 言いながら、悠木は半袖シャツの袖口で顔のビールを拭った。
「本当のことですよ、全部」
「貴様! 北関を貶《おとし》めやがって──そんな奴は即刻辞めろ! 北関を去れ!」
「辞めたじゃないですか」
「何?」
「高橋さんも、野崎さんも、多田羅《ただら》さんもみんな連赤のすぐ後に辞めた。読売や産経に引き抜かれて北関を出ていった。完敗したって認めてたからですよ。なのに勝った勝ったと騒ぐ北関に彼らは失望したんだ」
「黙れ!」
「聞け!」
 悠木は沸騰した。
「俺たちはなぜ負けたのかを徹底的に話し合うべきだった。下には負けない方法を教えなきゃならなかったんだ。それを自慢話ばっかり十何年もダラダラ続けてきやがって。そんなヒマがあったらまともな会議重ねて、とっとと無線機でも何でも入れりゃあよかったんだ。わかってるのか? いまだに北関は大久保連赤の時代とこれっぽっちも変わってねえ。間違いなく負けるぜ、今回の日航も」
 けたたましい音とともに、等々力の前のビール瓶が二、三本まとめて倒れた。
 殴り掛かってくる。悠木は身構えた。
 が、等々力は動かなかった。その体がゆらりと揺れた。眼光は悠木の目に食い込んでいる。いや、その瞳の焦点もフラついていて今にも悠木を逃しそうだ。
 酔ってる……? まさか、これしきのビールで等々力が。
 弱くなった。そういうことか。
 気が削がれた。悠木は等々力の視線を外し、ジョッキのビールをあおった。
 鉄板でホルモンが炭になっていた。
 岸は神妙な顔で腕組みしていた。田沢もそうだった。
 悠木は焼酎に替えた。飲んでも飲んでも酔わなかった。
 しばらくして、千鳥足の等々力が悠木の隣に回り込んできた。目を合わさず、悠木のコップにドボドボと焼酎を注いだ。半分はこぼれた。
「……読売に行った多田羅の奴……その後どうしたか知ってるか」
「いえ……」
「逝っちまったんだよ。さんざっぱら地方のドサ回りをやらされてな、最後は八戸で体をぶっ壊しちまった」
 等々力は尖らせた口で焼酎をチビリと飲んだ。
「俺にもな……当時引き抜きの話があったんだ」
 初耳だった。
「どこです?」
 等々力は視線をずらした。岸と田沢が額を寄せて何やらボソボソ話している。
「誰にも言うなよ」
「言いませんよ」
「朝日だ」
 言う前から、等々力はことのほか嬉しげに顔を歪めていた。
「なぜ行かなかったんです?」
「仕方ねえだろう。白河のオヤジに犬を押しつけられちまったからな」
 吐き出すように言った等々力は、今度は自嘲気味に笑った。
 悠木も小さく笑った。「犬奉行」は社内では知られた話だった。当時、編集局長だった白河が、飼い犬の産んだ五匹の子犬を、これぞと思う部下に配った。粕谷。追村。等々力。そして、現政治部長の守屋。広告部長で出た暮坂……。優秀な記者が次々と辞めていく。白河は焦燥に駆られていたのだろう。お前は俺の右腕だ。そんな含みを持たせて子犬を当てがったに違いない。
「あれは巧い作戦だった……。犬ってやつは可愛いからな。社で白河のオヤジにカチンときても、家に帰るとオヤジの分身が足元にじゃれついてきやがる。生き物だからなあ……捨てちまうわけにもいかねえ。もっとも、みんなもう死んじまったみたいだが、オヤジは子犬一匹で五年も十年も完璧に人事管理をしたってわけだ」
「完璧じゃないでしょう。暮坂さんは専務が撒《ま》いた餌に釣られて広告にいっちまった」
「そうじゃねえ。暮坂はオヤジに追い出されたんだ」
「追い出された……?」
「やつは福田に近づきすぎた。やつの兄貴が県議に出るって話がいっときあってな、福田の支援を得ようと裏で動いたのがオヤジの逆鱗《げきりん》に触れたのさ」
 悠木は無言で頷いた。ありそうな話だとは思ったが興味は湧かなかった。
 しばらく黙り込んでいた等々力が不意に声を上げた。
「夢や幻を食うみたいな、そんな仕事はしたくなかったんだ」
 悠木は首を傾げたが、すぐに気づいた。等々力はまだ「朝日」のことを話したがっている。
「国だ、世界だと相手がでっかくなったって、記者がやってる仕事はみんな一緒だってことだ。コツコツ調べ、コソコソ人に話を聞き、それだけだ。でっかい相手からネタを取ればでっかいニュースになるさ。だがなあ、でっかい仕事をしたわけじゃない。ちっぽけな相手から、ちっぽけなネタを取るのと同じ仕事だ。記者がやってることなんてのはみんな──」
 話が堂々巡りになっていた。呂律《ろれつ》も怪しい。等々力の瞳にはもはや正体がなかった。
 社に戻って寝よう。悠木がそう思った時だった。等々力が乱暴に悠木のネクタイを引いた。
「聞いてるのか、コラァ」
 等々力の顔は紙のように白かった。
「悠木ィ、覚えておけえ。地元紙の記者がなあ、負けたなんて言ったら終わりなんだ。どれだけ負けようとなあ、死んでも負けたなんて言っちゃあならないんだ」
 本音を晒《さら》して、等々力はごろりと畳に寝転がった。
 酔い潰れた顔を、しばらくの間見下ろしていた。
 母の言葉が頭に浮かんでいた。
 酔わなきゃ本音を言えない人を信じちゃだめだよ。そういう人は本当の人生を生きていないからね──。
 昔、等々力も似たような意味のことを言っていた。
 飲んだら笑え。酔ったら歌え。話は明日だ──。
 ふっと酔いが回るのを感じた。
 昔などではない。たった十何年か前のことなのだ。
 悠木はぐるりと店の中を見渡した。
 カウンターの奥で、おやっさんがミイラのような姿で居眠りしていた。
 あの頃はおやっさんも若かった。おかみさんも元気で夜中も店に出ていた。二人にチャンヒという名のめっぽう可愛い娘がいて、ベタ惚れした岸が生きるの死ぬのと大騒ぎをした。田沢はカウンターの上に飛び乗って山本リンダの真似をした。おかみさんに韓国語で怒鳴られたが、隙を見て何度でもやった。等々力がはやし立てていた。追村も手を叩いていた。時折、粕谷も顔を見せて散財した。みんなで「北関の歌」をがなった。あれはどこかの大学の応援歌か何かが元歌だったろうか。肩を触れ合わせ、声を張り上げて合唱した。
 みんな笑っていた。
 悠木も笑っていたと思う。
 幸せだった。父と兄と我が家までもを、いちどきに手に入れた気がしたものだった。この店にはすべてがあった。たくさんの笑顔と弾む会話に満ち溢れていた。
 等々力が鼾《いびき》をかきはじめた。
 岸と田沢はまだ難しい顔を突き合わせている。
 悠木は腰を上げた。
 一体いつ失ってしまったのか──。
 よろける足で店を出た。耳鳴りに混じって歌が聞こえた。
 
  東に 坂東太郎 大利根の河原を望み
  北に 名月 赤城山を仰ぐ
  ここ関東平野 総社の地に
  燦然《さんぜん》と輝くは
  我が 北関東新聞社である
  軟派よ 去れ
  硬派よ 来たれ
  いざ我 書かんかな 抜かんかな
  命尽きる その日まで

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