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北関から県立図書館までは車で十五分ほどの距離だ。
悠木の運転は慎重だった。黄色いレンズを透かして物を見ているような感覚はまだ続いていたし、額の辺りには、起きた時にはなかった鈍い痛みがあった。
小さい靴──実際にそんな手掛かりで人を探せるものかと疑わしく思い始めていたのだが、しかし悠木は車を駐車場にとめる前にもう末次を見つけていた。図書館の玄関を入る、固太りの男の背中を車の中から目撃した。靴が見えたわけではなかったが、その男は上下に体が揺れる独特の歩き方をしていた。
悠木は駐車場から小走りで玄関に回り、一階フロアに入って辺りを見回した。末次とおぼしき男は手すりを頼りに階段を上り始めたところだった。
「末次さん」
声を掛けると、真っ黒に日焼けした人懐っこそうな丸顔が振り向いた。四十半ば。丁度、安西と同じ年回りに見えた。
悠木は歩み寄った。名刺を差し出し、安西と宮田の名を交じえて簡単に自己紹介をした。
「ごめんなさい。僕は名刺がなくって」
それが自慢でもあるかのように末次は無邪気に笑った。「山屋」に幾つかのタイプがあるとするなら、安西と同じ「豪放磊落型」に分類されそうに思えた。靴は左右ともに小さかった。特注品らしく、その形や全体のバランスからして、やはり両足の指がないのだろうと察しがついた。
四階に軽食も出す喫茶室がある。悠木はそこに誘ったが、末次は二階に寄ってから行きたいと言った。安西が死んだザイルパートナーのために作った追悼集が郷土史料として二階に所蔵されている。せっかく群馬までやってきたのだから久しぶりに目を通したいという。
「いやね、僕の手持ちのは焼けちゃったんですよ。半年ほど前に家が火事になってしまいましてね」
そんな凶事すら末次は笑って話した。
二階のカウンターで司書に用件を告げると、数分待たされて、「鳥」と題した追悼集が手元に差し出された。相当に古い。大きさはA4判ほどで、かなりの厚みがある。製本されたものではなく、光沢のある緑色の紐《ひも》で右端が綴《と》じられていた。
階段を上る末次の足取りはことのほかゆっくりで、だから喫茶室につく前に大方の話は聞けた。「その事故」があったのは十三年前だった。衝立岩の雲稜第一ルート。トップで登っていた安西が核心部であるハングの手前で足を滑らせ、落石を起こした。「ラク!」。下方でザイルを確保していたセカンドの遠藤貢《えんどうみつぐ》に危険を知らせたが、運悪く大きめの岩が遠藤の額を直撃した。即死に近かったという。遠藤は誰にも最期の言葉を遺すことなく、安西の腕の中で息を引き取った──。
悠木はその山岳事故をぼんやりと記憶していた。もう北関に入社して記者をやっていた。取材にはタッチしなかったが、若き名クライマーの死を大きく報じた紙面は目にした。しかしまさか、その相方が安西だったとは。
喫茶室でアイスコーヒーの食券を二枚買った。
「いやあ、知らせを受けた時は信じられませんでしたよ。なにしろ、遠藤は岩ではピカ一、それに誰よりもタフな男だったんです。前の年にはチョモランマを、つまり──」
「ええ、わかります。エベレストですね」
「そう、遠藤はエベレストのサミッターになったんです。気温は常に氷点下、酸素は地上の三分の一という世界です。頂上を踏んだ時、彼が何をしたと思います?」
「いえ……私には……」
「サポートについたシェルパの話ですけどね、遠藤は記念写真も撮らず、旗も立てなかったそうです」
「じゃあ、何を?」
「空を見ていたそうです」
「空を……?」
「晴れた日、厳冬期のエベレストの上空にはツルの一団を見ることがあるそうです」
末次の顔と声は神妙なものになっていた。
「遠藤はそのツルの姿を探していたんでしょう。彼が登ったのは厳冬期ではなかったから見ることはできなかったと思いますが、地球上で最も高い場所に立っていながら、自分の上を飛んでゆく鳥を見たがっていた。もっと高いところに登りたい。鳥たちのように──遠藤はそんなことを考えていたのかもしれません」
「鳥」──追悼集のタイトルの意味が腑に落ちた。
末次は続けた。
「安西も遠藤に負けないほど山が好きでした。あんなことがなかったら、きっと、一、二年のうちにはエベレストのサミッターになっていたと思います」
悠木は、その末次の言葉を噛みしめた。安西は「山屋」だった。本物の──。
「本当に不運な事故としか言いようがなかったです。山に安全な場所というのはありませんけど、でも安西と遠藤にしてみれば、衝立岩はウォーミングアップ代わりだったわけです。いや、だからこそ衝立は恐ろしいとも言える。あの遠藤の命を奪い、安西からは山を奪ってしまったんですから」
末次は「鳥」を手にした。感慨深そうに表紙を見つめ、言った。
「この綴じ紐は、事故の時、二人を結んでいたザイルなんです」
悠木は目を見張った。
「安西はそのザイルを解いてこの綴じ紐を作ったんです。どんな気持ちでそうしたかと思うと今でも胸が痛みます。もう二度と誰ともザイルは組まない。山には登らない──そう決意したんでしょうね」
悠木はぶるっと身震いした。
言おうか言うまいか、しばらく逡巡《しゆんじゆん》した。
固唾《かたず》を飲み下し、悠木はテーブルに身を乗り出した。
「実は──」
「何です?」
「私は安西に誘われていました。一緒に衝立に登る約束をしていたんです」
「本当ですか……!」
末次は瞬きを止め、悠木をまじまじと見つめた。
「あなた、山は?」
「まるっきりの素人です。ゲレンデで真似事をしただけで」
末次は考え込んだ。しばらくそうしていたが、答えは出てきそうになかった。
悠木はさらに身を乗り出した。
「一つ聞いてもいいですか」
「ええ、もちろん」
「下りるために登る──この言葉の意味、わかりますか」
「下りるために……登る……?」
末次は首を捻った。
「山の世界に、そういう格言のようなものがあるわけではないんですね?」
「聞いたことがありません。それ、誰が? 安西がですか」
「そうです」
末次はまたしばらく考え込んだが、諦めたように顔を上げ、溜め息を漏らした。
「あの事故から十三年も経ってますからね。苦しみ抜いた末に、安西が辿り着いた境地なのかもしれませんね。残念ながら意味はわかりません」
「そうですか……」
悠木は吐き出した息とともに肩を落とした。
末次はこれから浜松まで戻るという。予定している新幹線の時間が迫っていた。
「あと一つ教えて下さい」
悠木は早口で尋ねた。
「クライマーズ・ハイというものは本当にあるんですか」
「あります。結構、恐ろしいものですよ」
「恐ろしい……?」
悠木は意外な思いにとらわれた。
「興奮が乗じて恐怖心がマヒしてしまうようなことですよね?」
「ええ、そうです」
「怖さを感じなくなるんでしょう? だったらなぜ恐ろしいんです?」
「解けた時が恐ろしいんです」
末次は眉を寄せて言った。
「ひょんなことで、そのクライマーズ・ハイが解けた時が恐ろしい。心の中に溜め込んだ恐怖心が一気に噴き出しますからね。岩壁を攻めている途中で解けてしまったら、そこからもう一歩も登れなくなります」
悠木は身を固くしていた。
〈興奮状態が極限まで達しちゃってさ、恐怖感とかがマヒしちゃうんだ〉
〈ダーッと登っていって、ハッと気づいた時には衝立のカシラさ。めでたしめでたし〉
なぜ安西はその先を話さなかったのか。
ただ単に山経験のほとんどない悠木を安心させるためにそうしたのか。
わからなかった。頭が混乱していた。安西のことを一度にたくさん知りすぎ、安西のことがまったく見えなくなっていた。
だが、知りたかった。安西を再び衝立岩に駆り立てたものは何だったのか。
そして、安西はなぜザイルパートナーに悠木を選んだのか。