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クライマーズ・ハイ27
日期:2018-10-19 13:51  点击:345
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 ハンドルを握る手には、まだゴムボールの柔らかな感触が残っていた。
 社の駐車場に車を滑り込ませながら、悠木はメーターのわきのデジタル時計を見た。午後二時十三分。ベルトのポケベルがまた鳴り出していた。
 階段を一段抜かしで上がり、編集局の大部屋に入った。デスクにつくなり、隣の岸が丸くした目で悠木を見た。
「おい、俄《にわか》雨にでも降られたか」
 悠木のYシャツは湿っていない部分のほうが少なかった。
「久しぶりにキャッチボールをした」
「この炎天下でかよ?」
 呆れ顔で言われてみて、さほど暑さを感じていなかったことに悠木は気づいた。燐太郎を励ましたつもりでいたが、夢中でボールを放っていたのは、むしろ悠木のほうだったかもしれない。
「それよか、ポケベルの連発は何だ?」
「それだ」
 岸は短く言って、悠木のデスクの端を顎で指した。
 原稿の山に紛れて気づかなかったが、社製の文鎮の下に伝言メモが十枚ほど挟まれていた。一番上に玉置の名があった。「至急、連絡を取りたい」──。
 事故調。圧力隔壁。破壊。幾つもの単語が頭の中で点灯した。
 悠木は電話を手元に引き寄せて玉置のポケベルの番号をプッシュし、その指で県警の佐山のポケベルも呼んだ。
 受話器を置き、他の伝言メモを捲《めく》り始めた悠木は、ふとその手を止めた。
 隣のデスクを見る。岸は原稿に目を落としていた。手にした赤ペンが時折動く。
「岸」
「ん?」
 表情のない顔が向いた。
「電話番をさせちまって悪かったな」
「もう席を外すなよ。日航デスクは、行列のできる店みたいなもんだからな」
 顔つきや受け答えは普通でも、全体の印象というのは誤魔化せないものだ。
 昨夜の飲み会が尾を引いている。「北関は大久保連赤で中央紙に惨敗した」。等々力社会部長の鎧《よろい》に切りつける思いで口にした台詞だったが、その場にいた岸や田沢までもが驚くほど過敏に反応した。記者時代の思い出を汚された。もしそんな受け取り方をされたのだとしたら、その思い出の多くを共有してきた同期なだけに、わだかまりを払拭するのはかなり難しいことのように悠木には思えた。
 目の前の電話が鳴った。
〈佐山です。呼びましたか〉
「ああ、呼んだ」
 てっきり玉置からだと思って出たので、悠木は一瞬言葉に詰まった。
「……今、県警クラブだな?」
〈そうです〉
 佐山の声は昨日同様、冷えていた。
「話がある。上がってこれるか」
〈遺体確認のサツ発表が続いてますが〉
「誰かいないのか」
〈森脇しかいません〉
「しか」と言われても仕方あるまい。先月外勤に出たばかりの一年生記者だ。
「そこは森脇でいい。引き継いで上がってこい」
〈電話じゃ済まない用事ですか〉
「済まない」
 強く言った。
「二十分で来い。こっちは三時半から会議になっちまうからな」
〈……わかりました〉
 佐山とやり取りをしている間に、機報部の赤峰が共同配信の原稿をどっさり置いていった。≪遺体収容やっと六割≫。仮見出しが目を刺す。
 悠木は届いた原稿を大まかに仕分けし、もう一度、玉置のポケベルを呼んでから伝言メモに目を戻した。何枚か捲ったところで首筋が硬直した。目に飛び込んだ名前に体が勝手に反応していた。
「望月彩子《もちづきあやこ》」──。
 電話が欲しいとの伝言だった。高崎局番の連絡先が記されている。午後一時の着信。用件は書かれていない。
 望月亮太の関係だろうと察しはついた。胸に重苦しいものが広がった。交通事故死。それが自殺に類するものだったとの思いは動かない。だが、きっかけは悠木が与えた。その事実もまた動かしようがなかった。
 望月の母親の名は「久仁子《くにこ》」だと正確に記憶していたから、悠木の脳裏には、望月の月命日に霊園で目にした女の顔が浮かんでいた。望月の従姉妹とおぼしき二十歳《はたち》前後の若い娘。悠木をきつく睨み付けた。おそらくは彼女が「彩子」なのだろう。随分と前の出来事に感じられたが、月命日はたった四日前のことだった。その日の夜に123便が墜落した。事故を境に日にちや時間の感覚がすっかり狂ってしまったのだと改めて思う。
 だが、いったい何の用だ……?
 悠木は首を伸ばして編集庶務のシマを見やった。伝言メモの字が依田千鶴子のものだったからだ。用件は何か。相手が言わなかったのだとしても、電話の受け答えで得た印象ぐらいは聞いておきたかった。
 席に千鶴子の姿はなかった。机の上が綺麗に片づいている。
「岸、依田はどうした?」
「あ? ああ、チーちゃんなら午後から前橋支局に行ったよ」
 朝方目にした、千鶴子の晴れやかな表情が記憶の片隅に残っていた。
「異動は九月イッピだろう?」
「さっき、工藤さんが局長にねじ込んで、前倒しを呑ませたって話だ。玉置と田仲を日航で取られちまってるからな。彼女の手が空いてる時間は支局を手伝わせるってことになったらしい」
 悠木は頷いた。前橋支局長の工藤は「パニック屋」だ。もう五十に手が届くが、少しでも仕事が嵩張ると、意地も見栄もなくすぐに本社に泣きを入れてくる。
 支局まで電話で追い掛けるのは気が引けた。悠木は白紙の頭のまま、メモの番号を指で辿った。
 先方の電話は留守電になっていた。不在を告げる録音テープは既製ではなく、彼女自身が吹き込んだもののようだった。凜としていて、その分、穏やかさに欠ける声──。
 社名と名前を棒読みで言い、またこちらから電話を入れるとメッセージを残した。向こうから突然掛かってくるのを恐れてそうしたようなところがあった。
 シャツが汗で湿っていたせいだろう、クーラーの冷気がいつもよりきつく感じられた。千鶴子が不在だからかもしれない。膝掛けを欠かさない彼女なら、とっくに冷風の目盛りを絞っている。
 悠木はシャツの襟元を合わせ、片手で他の伝言メモを検《あらた》めた。半分以上が玉置からのものだった。燐太郎とキャッチボールに興じたことを少しばかり後悔し始めていた。社に戻るのが遅れたがために玉置と完全に擦れ違ってしまった。ポケベルの返事はない。上野村は辺境の地だ。普段なら電波の悪い場所にいるとみなすところだが、時間をおかずに四回も五回も連絡を寄越したことを思えば、玉置は既に事故調の調査官と接触を果たし、「隔壁原因説」のウラ取りに成功したと考えることだってできる。
 想像はしてみるが、だからと言って玉置という記者に対する信頼感が増すわけではなかった。いずれにせよ電話を待つしかない。そう自分に言い聞かせて、悠木は残りの伝言メモに目を通した。
 急ぎのものはなかった。広告の宮田が連絡を寄越していた。「山屋の末次」に会えたかどうかを確認したかったのだろう。
 その末次の話が頭から離れずにいた。安西耿一郎は衝立岩でザイルパートナーを亡くしている。自らを責め、山岳界から身を引いた──。
 急《せ》き立てられているような気持ちになった。
 悠木は腰を浮かせ、ズボンのポケットから手帳を取り出した。県央病院で小百合から預かった安西の手帳だ。黒革の表紙に金文字で今年の年数が入っている。
 開いてみて驚いた。どの頁も真っ黒だった。そう形容していいほどに細かい字でびっしりと行動予定が書き込まれている。
「8月12日」を見た。
 早朝から接待ゴルフの予定が入っていた。瞬時に当日の記憶が蘇った。汗染みで涎掛けのように見えた赤いTシャツ。口の回りを一周する泥棒髭までテカテカと光っていた。あの日こそ、まさしく「炎天」だった。安西は何も言わなかったが、あの暑さの中、県営ゴルフ場で一ラウンド回ったあと社の食堂に現れたということだ。いや、ゴルフだけではない。その日の午後から夕方に掛けて販売店回りが五カ所も入っていた。さらに……十二日の枠の隅に小さな書き込みがあった。目を凝らす。「ロハ」と読めた。
 悠木はぼんやりとした瞳に瞬きを重ねた。
 ロハ……? 「只」を意味するロハだろうか。
 手帳に目を戻した。「8月13日」。そこだけ青色のペンで記してあった。「衝立岩再登」。筆圧の強い文字を、小学校の教師がつけそうなハナマルで二重三重に囲ってある。
 小百合の言葉が思い返された。
 あの人、すごく楽しみにしてたんです。悠木さんと山に行くのを──。
 感傷を振り切り、悠木は手帳の日付を遡った。書き込みの大半は販売店主に対する接待の予定だった。販売局の日常的な仕事とはこうしたものかと思わず唸る。酒。麻雀。カラオケ。ゴルフ。温泉。釣り。河川敷のバーベキューやボウリング大会まで企画している。随所に、聞き覚えのあるスナックやクラブの店名が記してある。「ロハ」も散見した。六月七日に初めて登場して、次第に頻度を増し、八月になると数日おきに書き込みがなされている。やはり接待に使っていたスナックか何かだろうか。しかし他の店と異なり、「ロハ」だけは決まって日付欄の枠の隅に書かれていて、そのせいか特別な記号に思えたりもする。
「ロハ」に対する関心はすぐに薄れた。八月の書き込みの中に思いがけない名前を幾つも発見したからだった。「大隈《おおくま》」「磯崎《いそざき》」「織部《おりべ》」。北関の人間ならば誰しもピンとくる。それらは県内有数の企業経営者たちの名であり、同時に北関の顧問や監査役を務める社外重役の面々でもある。書き込みから察するに、販売局長の伊東も同席のうえ、高級クラブを何軒もハシゴした──。
 視界が暗くなった。
 単なる噂ではなかった。白河社長を追い落とすべく、専務派による根回しが夜な夜な行われていたということだ。次の役員会を睨んでの多数派工作であろう。飯倉専務の右腕と目される伊東。その伊東を「恩人」と慕う安西。彼らが社外重役を一人、また一人と取り込んでいくさまを、日時と場所と名前の羅列でしかない無機質な書き込みが生々しく浮かび上がらせていた。
 嫌悪をもよおす一方で、悠木は安西がクモ膜下出血で倒れた原因の一端を垣間見た思いがしていた。相当にハードなスケジュールだ。とりわけ、この三カ月余りは、連日連夜、接待と根回しに忙殺されていた。いくら安西が酒好きとはいえ、深夜までただ相手のために飲み、機嫌を取り続ける酒席が負担にならないはずがない。休みは月に一日しか取っていなかった。〈ひどいな、とは思っています。あんなに働かされて〉。この段になって小百合のこぼしたひと言が真に迫ってきた。しかも、安西はその貴重な休日を「登ろう会」の山歩きに充てていたのだ。
 社員食堂での、安西の様子が改めて思い出された。書き込みによれば前夜も接待で飲んでいた。そして炎天下のゴルフ。なのに疲れた素振りはまったく見せなかった。仕事や根回しのことなどおくびにも出さず、いつもと変わらず瞳をキラキラ輝かせ、翌日に控えた衝立岩登攀について嬉しそうに語っていた。群馬総社発午後七時三十六分。駅での待ち合わせを約束して別れた。だが安西は駅へは行かず、深夜二時過ぎ、飲み屋が犇《ひしめ》き合う城東町の道端で倒れた。
「ロハ」が再び脳裏を掠めた。飲み屋だとするなら、そこへ行ったと考えるのが自然だ。だが、そうだとするとおかしなことになる。あらかじめ「ロハ」に行く予定を組んでおきながら、悠木と七時三十六分の待ち合わせをしたことになって話の辻褄が合わない。早い時間に店に寄り、そうすれば約束の電車に間に合うと考えていたのか。ことによると、安西は最初から衝立岩を登る気がなかったということか。いや、一度は登る決心をしたが、いざ明日という段になって気持ちがぐらついたのかもしれない。だから食堂で悠木と別れてから、「ロハ」の予定を入れた。急に仕事が入って行けなくなった。あとで悠木にそう言い訳をするために。
 衝立岩でザイルパートナーを亡くし、それから十年余の歳月を経て、安西は北関に「登ろう会」を作った。その思いがわからない。山への未練がそうさせたのかもしれないし、もし安西が友の死から一歩も抜け出せていなかったのだとしたら、遊び半分の会を率いることで、生粋の山屋である自分に対して贖罪だか自虐だかの時間を課していたということも考えられる。いずれにせよ、悠木が会のメンバーに加わったことで安西の日常は揺らいだ。岩登りをやりたいとせがまれ、悠木と連れ立って榛名のゲレンデに出掛けるようになった。そこで何を思い、いかなる心境の変化があったのか。衝立をやろう。言いだしたのは安西だったが、過去の経緯を知った今となっては、その内面に吹き荒れたであろう葛藤の嵐を思わずにはいられない。
 悠木は背後のドアを振り向いた。
 紙面作りの主力部隊である「三時出」の局員がどっと入ってきたところだ。大部屋はにわかに騒がしくなった。
 田沢の仏頂面も左隣のデスクに現れた。その姿に気づいた瞬間、岸が覗かせた安堵の表情を悠木は見逃さなかった。岸のほうも悠木と二人だけの時間に気詰まりを感じていたのだろう。
 田沢は悠木と目を合わそうともしなかった。ショルダーバッグを机に置くと、間の席にいる悠木の頭越しに岸に声を掛けた。
「市役所に寄ったら、記者室に依田がいたぞ」
「ああ、前倒しで行ったんだ」
「大丈夫かあいつ。見たこともないような怖い顔をしてやがった。十行のお知らせ記事が書けずによ」
「最初はみんなそうさ」
「あの程度のは出た日に書けるだろう」
「お前ならな」
 仲良しごっこをやっていろ。
 胸を吹き抜けた疎外感は、その胸の奥で棘《とげ》のある言葉にすり替わった。と、田沢の顔が悠木に向いた。
「販売の安西が倒れたらしいな」
 悠木は、ああ、とだけ答えた。四日遅れ。他局の情報が入ってくるまでには概してそれぐらいのタイムラグがあるものだ。
「ドロちゃんが? それホントかよ?」
 岸は心底驚いたようだった。殺したって死なない。確かに安西はそんなふうに見える。
「市の消防本部の人間が支局長に耳打ちしたんだとよ。クモ膜下で倒れて、県央に運び込まれたって話だ」
「クモ膜下……!」
「ああ、走ってて倒れ込んだらしい」
 安西が走っていた……?
 悠木は田沢を見た。
「その話、固いのか」
「見てた人間がいたそうだ」
「おい、そんなことより、大丈夫なのかよ、容体は?」
 岸の顔は、半分は悠木に向いていた。
「過労死だ」
 手帳の書き込みを見て思ったことが、そのまま言葉になって出た。
 岸は頬を引きつらせた。
「過労死って、よせよ悠木。生きてるんだろう?」
「当たり前だ」
 怒ったように言って悠木は腰を上げた。こちらに向かって歩いてくる佐山の姿を目にしたからだった。
 大した面構《つらがま》えになっていた。強気一辺倒の日頃の顔とは明らかに違う。御巣鷹山から下りてきた直後の強張りや脅えの翳《かげ》も消え失せていた。
 出来上がった「事件屋」の顔だった。
 それを目の当たりにして、悠木は初めて実感した。北関はいま、世界中を駆けめぐる最大級の抜きネタに挑まんとしている──。

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