30
悠木が一階の販売局に足を向けたのは五時近かった。
その前に総務局に寄ってきた。同期の久慈をつかまえ、社長と黒田美波の関係を聞いた。彼女が受けた被害とはいったいどのようなものだったのか。フロアの隅の小部屋で問いただしたが、「社内中立」を標榜する久慈の口は固かった。
俺は知らない。本当だ。社長は内側から鍵を掛けちまうから何もわからないんだ。
悠木は半ば目的を達した気がした。白河社長と黒田美波は、社長室という「密室」の中で二人きりでいた──。
販売局のドアは開け放たれていた。
悠木が入室すると、奥の机で伊東局長の顔が上がった。他には誰もいなかった。部屋は手狭で薄暗い。「ブラックボックス」と呼ぶにふさわしい雰囲気だ。ここに入っているのは販売部だけで、新聞発送部には別の大部屋があてがわれている。
「これはこれは……」
伊東はのっそり立ち上がって、開いた手をソファに向けた。
思いがけず豪華なソファだった。用件を切り出す間もなく、伊東が喋り始めた。
「いやあ、今日の一面はよかったねえ。君のアイディアなんだって? 写真一枚で福中のバランスをとるなんて、ちょっとできることじゃあない。飯倉専務も感心してたよ。一本取られた、ってさあ」
相も変わらずネチャネチャと耳障りな喋り方だ。唇の端から唾液が溢れ出るのではないかと、いらぬ心配をさせられる。
「今日は何だい? わざわざ来てくれたってことはさ、昨日の話、考えてくれたってことかい」
「昨日の話って何です?」
悠木はきつく返した。
「だからさあ、色狂いの社長に見切りをつけたほうがいいって話さ」
専務派の一員になれということだ。
「しばらく安西の代わりをやってみないかい? 君、今の編集局じゃあ引いてくれる人もいないわけだろ? それにさあ、君と僕は昔から知らない仲じゃないんだし」
「伊東さん」
悠木は編集局の用件を後回しにすることにした。
「言っておきますが、俺に脅しは通用しませんよ」
「やあ、そんな怖い顔するなよ。嫌な思いをしたのは君だけじゃないんだからさ」
言葉の意味を計りかねた。が、悠木はここで母の話をしたいわけではなかった。
「安西は随分と仕事をさせられていたみたいですね」
「人聞きが悪いなあ。させられてたんじゃない。彼は誰よりも働き者だったんさ」
「社外重役に寝業を仕掛けていた──あなたが命じたんでしょう」
伊東の顔色は変わらなかった。目元と唇に薄い笑みを湛《たた》えている。
「奥さんがそう言ったんかい?」
一昨日も盛んに悠木に尋ねていた。裏工作の実態が小百合を通じて悠木に伝わったのではないかと案じていたのだ。
「違います。安西の手帳を見ました」
伊東の顔から笑みが消えた。
「へえ。いいのかい? そんな無茶なことして」
「奥さんの許可を得ました」
「ふーん。で? その手帳を上の人間に見せたわけ?」
伊東が探る目で言った。
余程、「見せた」と言ってやろうかと思った。
「私は安西のことを聞いてるんです。彼はあなたのことを恩人だと言っていた。吉川販売店で働いていた安西を北関に引き抜いたそうですね」
図書館で末次から聞いた話だった。
衝立岩で遠藤貢を亡くした安西は、しばらくの間、惚けのように暮らしていたという。多くの山屋がそうであるように、もともとが定職を持たず、アルバイトで食いつなぐ生活を長くしていた。四畳半一間のボロアパート。親の反対を押し切り、家出同然で転がり込んできた小百合を妻にしたが、燐太郎を身籠もるまでは籍も入れていなかった。「大恋愛」は、老舗の和菓子店の一人娘で、しょっちゅう大福を買いにきていた安西に惚れた、小百合一人にとっての物語だったかもしれない。
が、遠藤の死後、安西に立ち直るきっかけを与えたのは紛れもなく小百合だった。「偶然見ちゃったのがショックだったんさ」。安西は末次にそう話していたという。臨月を迎えていた小百合がアパート近くの道で転ぶのを目撃した。ヨロヨロと起き上がった小百合は、両手を腹に当て大切そうに何度も摩《さす》った。その手の甲と膝頭に血が滲んでいた。「小百合の奴、全然気づかないんさ。ポタポタ血が落ち始めてもさあ」。それから間もなく、安西は求人広告にあった吉川新聞販売店の住み込み従業員となった。朝夕の配達から集金、拡張までこなして広い部屋を借りる金を貯めた。その頃の超人的な仕事ぶりが伊東の目にとまり、北関入社のきっかけになったという話だ。乳飲み児を抱えた若くない夫婦にとって、県内有数の優良企業である北関に誘われた喜びはいかばかりであったか。「命の恩人」。伊東のことをそう崇める安西の気持ちに嘘はなかったろう。
伊東は、その安西の気持ちを最大限に利用したということだ。穿《うが》った見方をするなら、最初から「汚れ仕事」をさせる目的で安西を引き抜いたのかもしれない。安西にしてみれば、どれほど意に沿わない仕事であっても断れない。恩人の言うことだからと目を瞑《つむ》って従ってきた。学歴もなく、中途採用の弱みもある。伊東の命に背いたら北関にはいられない。追い出される。そんな恐れを抱いてもいたか。
「安西はいいようにあなたに使われていた」
「部下だからね。使うよね」
伊東はまた笑みを取り戻した。
「黒田美波を安西にマークさせた。社長失脚のネタを掴むために」
「明るいうちからよそうや、そういう生臭い話は。安西は優秀だったよ。彼があんなことになって一番ショックを受けてるのはこの僕なんだから」
絡んだ視線を解いた。
改めて伊東を見据え、悠木は言った。
「明日の朝刊から藤岡市内に五百部多く落とします」
「え? 聞いてないけど」
悠木は簡潔に編集局の考えを告げた。
伊東は露骨に嫌な顔をした。
「困るなあ。三カ所の待機場所に置いてくるとして、一カ所当たり百七十部もだろう。販売店の配達員はぎりぎりの数でやってるんだ。そんなもの配る余裕はないよ」
「バラで配るわけじゃありません。待機場所の前に束のまま置いてもらえばいい。そこから読みたい遺族が自由に持っていくということです」
「編集の人間はさあ、何も知らないから簡単に言うけどね。郡部や山間部には北関だけ配ってる専売店はほとんどないんだよ。呉越同舟。朝日や毎日なんかも一緒に扱ってるから、ウチだけ特別なことをしてもらうわけにはいかないんだな」
なんと弱腰な。そう思ったが、悠木の頭にはもう一つの案があった。
「ウチの発送部のトラックが途中で待機場所に落としていく。どうです?」
「それじゃあ、遠回りになっちゃうじゃないか。藤岡へ行くトラックは、そのあと、多野郡の万場、中里、上野村まで上るんだ。販売店にトラックが着くのが遅れらあ」
「五分とか、十分のことでしょう?」
まさか、その一言が伊東を怒らせてしまうとは思ってもみなかった。
「あのなあ、その五分、十分が店にとっちゃ重大事なんだよ。毎日午前一時だ二時だに起き出してるんだ。社員総出で指にゴムサック嵌めてな、一部一部、新聞に折り込み広告を挟み込んで、それが済んだら配達の方面ごとに仕分けしてだ、日々戦争みたいなもんなんだ。十分遅れてみろ、ウチの局には、方々《ほうぼう》の店から火が点いたような怒りの電話が一分おきに掛かってくるんだ」
間延びした口調は消え去っていた。
「それでなくても、ここんとこ、日航のお陰であちこちの販売店で遅れが出てるんだ。編集に締切があるように、こっちにもデッドラインってもんがあるんだ。下手すりゃ、顧客への配達も遅れる。朝飯の後に届くような新聞を新聞だなんて胸張って言えないだろうが」
販売局にもプライドがある。悠木は初めて知った。だが──。
販売のトップ。裏工作の黒幕。二つの顔を同時に晒した伊東への不信感と不快感は相当なものだった。
悠木は伊東の目を睨んだ。
「では、五百部は受けないということですか」
「そうは言ってないだろう。日航もそろそろ落ちついてきたんだ、編集が早め早めに版を降ろして輪転を回せばいい。そうすりゃ、待機場所に寄り込む五分や十分、どうとでもなる」
「やってくれるんですね?」
「ああ、そっちがちゃんとやるならな」
了承の確認を取ってから、悠木は話を蒸し返した。
「早く版を降ろせない時もあります」
「楽しんで作ってるからだろう」
「楽しむ……? どういう意味です?」
「俺たちにはそう見えるんだよ。大勢が眉間に皺を寄せて深刻ぶってやってるが、所詮はニュースをこねくり回して楽しんでるだけのことだ。締切時間が近づけば近づくほどゾクゾクしてくる。そういうことなんじゃないのか」
反射的に眉が吊り上がった。
「事件や事故の原稿はどうしてもぎりぎりになる。最新のネタを入れたいですからね」
「読者はそんなことは期待してない。編集のマスターベーションだ。こっちの身にもなってみろ。お前らが遊び半分ノロノロ作ってるツケが全部回ってくるんだぞ」
「販売店の文句も押さえられないで、何のための販売局です」
思わず言葉が迸《ほとばし》った。
伊東の細い目がゆっくりと開いた。
「何だと……?」
もう止まらなかった。
「毎晩、湯水のように金を使って店主を接待してるのは何のためか、と聞いてるんだ」
「ふざけるなよ! さっき言ったろう。専売店以外は他紙との共生だ。店主がもう北関を売らないと言いだしたらどうする? お前らが山奥まで行って一軒一軒配るのか? 新聞は宅配制度が崩れたら終わりなんだ。店主に飲み食いさせて気持ちよく配らせるしかねえんだよ!」
「そっちに都合のいい話はよせ。山奥で他紙が何部出てる? 微々たるもんだろうが。販売店だって北関を売らなきゃ食えないんだ。持ちつ持たれつだ、関係は五分五分ってことだ。なのに弱腰外交を決め込みやがって、年間いくら無駄金を使ってるんだ」
「黙れ!」
伊東がテーブルに拳を落とした。
二人は至近で睨み合った。
伊東の机の電話と、悠木のベルトのポケベルの両方が鳴っていた。
悠木が腰を上げ、伊東も立ち上がった。
伊東が目を細めた。
「坊や、あんまり力むなよ。新聞なんてものは大したもんじゃない。試しに、二、三ページ白紙を混ぜた新聞を作ってみな。俺たちがちゃんと売ってやる」
二人同時に踵を返した。
悠木はドアまで歩き、振り向いた。受話器を耳につけた伊東に言った。
「一つ言い忘れてました──今夜の降版もかなり遅くなりますのでよろしく」