31
午後六時を回り、編集局の大部屋は煙草の煙で靄《もや》っていた。
悠木がデスクについてすぐ、佐山から電話が入った。上野村役場に到着して玉置と合流した。役場に行く前に事故調の調査官が投宿する旅館「たの」を観察し、勝手口のドアに鍵がないことを確認したという。
悠木は原稿を読み始めた。
≪農大二高圧勝!≫≪父奪われた球友「君の分まで頑張った」≫≪校歌に涙・家族待機所でテレビ観戦≫≪生存者が証言・異常発生に機内はパニック≫≪「ベルトを切れ」墜落直前、父が絶叫≫≪もっと生存者いた・検視結果で判明≫≪身許確認難航・判明は百八十一人に≫≪機体を切って遺体の運び出し≫≪しめやかに三十六人の告別式≫≪遺骨次々と家路に≫
「悠木君──」
声に振り向くと、『こころ』担当の稲岡が控えめな拝みポーズをとっていた。
「ごめん。今日はちょっと日航の特集が組めなくなっちゃったんだ」
「なぜです?」
「いや、終戦記念日モノの残りが四、五本あってね。今日が使える限界だろ。内容がいいんで捨てたくないんだよ」
悠木は内心ホッとした。追村次長が爆発寸前だったこともあって、『こころ』の件は、結局、上に言いそびれてしまった。一日か二日、冷却期間をおくのがベストだろうと思ったが、自分で提案しておいて稲岡に日延べを申し出るのも恰好がつかないので、そのまま放っておいた。今日、予定通り稲岡が日航特集を組んだら、その時はその時で追村の怒声を浴びようと覚悟を決めていたのだが、稲岡のほうの事情で先送りになるのならそれに越したことはない。
「いつならできます?」
「明日は法律相談の日でスペースが取れないから明後日やるよ。それでいいかい?」
「ええ。お願いします」
悠木は頭を下げた。椅子を回転させて体の向きをデスクに戻した時、頭の芯がグラッと揺れた気がした。
やはり風邪をひいたようだ。
大部屋に戻ってから、額の辺りに熱っぽさを感じていた。寝不足。伊東に対する憤怒。スクープを目前にした昂り。微熱の原因は色々考えられたので風邪だと決めつけずにいたが、先ほどから背筋に悪寒のようなものまで走り始めた。
悠木は席を立ち、フロアを横切った。クーラーの送風目盛りを「5」から「3」に下げ、戻る途中に編集庶務のシマに立ち寄った。薬箱代わりに使われている空き机の引き出しから風邪薬を調達し、水なしで呑み下しながら自分のデスクに向かった。風邪だと意識したからかもしれない。足が若干ふらついているような気がした。取り敢えず締切時間までもてばいい。口の中で言いながら、悠木は再び原稿に向かった。
≪日米合同調査団が現地入り≫≪尾翼落下は下田沖・海流を逆算し推定≫≪客室天井の一部が漂着≫≪第四エンジンも発見≫
頭のどこかで玉置を疑っていたのだと思う。原稿に没頭していたにもかかわらず、悠木はファックスが動きだす音を聞き逃さなかった。
顔を上げると、隣の岸が腰を上げたところだった。
「おそらくこっちの関係だ」
制するように言って、悠木は立ち上がった。ファックス置き場の机の前に回り込む。案の定、「前橋・玉置」のクレジットが吐き出されてきた。原稿を送る前に一本電話を寄越せ。そう釘を刺したはずだが忘れたか。
前文が流れ始めた。
≪五百二十人の死者を出した日航ジャンボ機墜落事故で、運輸省航空事故調査委員会(事故調)は十六日、事故原因を「機体後部にある圧力隔壁が破裂したことによるもの」とほぼ断定した。事故機は七年前にも、大阪空港で「しりもち事故」を起こしており、その際損傷した隔壁の修理ミスが遠因との見方も出てきている。このため事故調は──≫
背中がゾクリとした。風邪による悪寒でないことは明らかだった。
ファックスは延々続いた。悠木は周囲から原稿の出を隠すように立ち、一枚出てくるごとに抜き取っては、裏にして重ねていった。
二十三枚。百十五行の「大作」だった。
悠木は自分のデスクに戻り、赤ペンを手にした。両手、両肩を壁のように使い、原稿を抱え込むようにして読み始めた。
冗漫な原稿だった。力み返ってもいる。事実と憶測とが渾然とし、文脈の破綻が随所に見られる。大手術が必要だった。
まずは不必要な部分をばっさり切った。次いで危ない箇所を削り、前後を繋げながら文章を整えていく。
読み返し、また手を入れる。さらに無駄を削ぐ。最上級の抜きネタに贅肉はいらない。骨格だけをひたすら際立たせるのだ。
悠木は赤ペンを置いた。
壁の時計に目をやる。午後八時十五分。手直しに一時間を要した。原稿用紙の角を揃えた。十三枚。六十三行。ほぼ半分削った計算だ。
悠木は引き出しに原稿をしまい、受話器を取り上げて内線番号をプッシュした。
整理部のシマの中央、吉井の目の前の電話が鳴り、手が伸びた。
声を殺す。
「悠木だ」
〈あ、はい〉
吉井の視線が悠木に向いた。
「昨日の話、今夜やる」
吉井の表情が強張ったのが、ここからでもわかった。一拍遅れて低い声。
〈行数は?〉
「六十チョイだ。農二のとは別に、もう一枚作ってくれ」
〈わかりました。出稿は?〉
「十時過ぎで見出しは間に合うか」
〈楽勝です〉
「あとでな」
吉井が受話器を置くのを見ながら、空いた手でフックを押した。その指で玉置のポケベルの番号をプッシュする。
十五分ほどして応答があった。
〈玉置です。呼びました?〉
吹っ切れた感じの声だった。
殺したままの声で言う。
「原稿は読んだ」
〈ちょっと長すぎましたか〉
「心配するな。それより、そっちはどんなことになってる?」
〈佐山さんは裏山でスタンバイしてます〉
「裏山……?」
〈旅館のすぐ裏に、熊笹の群生した小高い山があるんです。旅館の中が多少見えます〉
悠木は一つ頷いた。
「事故調の連中は?」
〈とっくに食事と風呂は終えて、今は旅館の広間で会議をしているようです〉
「他社は?」
〈いつもと同じです。各社とも旅館の近くでウロウロしています〉
「お前の場所は? 旅館との往復にどれぐらい掛かる?」
〈ちょっと村道を下った先の公衆です。往復十五分といったところです〉
「わかった。余程のことがない限り、しばらくこっちからは呼ばない。次はお前のほうから寄越せ」
〈えーと、どのタイミングで?〉
「佐山が旅館に潜った時だ」
〈わかりました──あ、それと、悠木さんに聞いておくよう、佐山さんに言われたんですが〉
「何だ?」
〈今夜の締切時間です〉
悠木は一瞬言葉を失った。
そうだった。佐山は締切時間を聞かずに上野村に向かった。現場雑観の件が尾を引いていたか。いや、悠木のほうが無意識に避けていたのかもしれなかった。
目線を上げた。八時四十五分。だが、時計の針ではなく悠木の目は文字盤の「12」から「2」までの間を凝視していた。
数秒で決断した。とりわけ小さい声を送話口に吹き込む。
「午前一時だ。そっちの状況次第では一時半まで待つ」
〈一時半? そんなこと出来るんですか〉
「佐山にそう伝えろ」
〈あ、はい。わかりました〉
受話器を置いた。
両サイドに、ただならぬ気配を感じていた。岸と田沢。こそこそ何をやってやがる。無言の空気がそう言っている。
悠木は共同原稿の束を手元に引き寄せた。動悸が速まり、呼吸が微かに乱れている。風邪のせいではない。引き出しの中にある「ブツ」のせいだ。
すべての原稿を見終えたのは九時五十分だった。
あと十分……。悠木は待った。
「十時あがり」の局員がバラバラと席を立った。日航機事故に対応すべく特別のシフトを組んでいるが、それでも局員の三分の一ほどが帰り支度を始めた。残りの局員は「ラスト・オーダー」と呼ばれる。最終紙面が出来上がるまで社屋を出ることはない。
悠木はおもむろに引き出しを開き、玉置の原稿を取り出した。
「岸──社員名簿あるか」
岸は中腰でバッグに資料を詰めていた。悠木を数瞬見つめ、その目を自分のデスクの本立てに移した。すぐに手が伸びた。
「はいよ」
「すまん」
悠木は目的の頁を開いて文鎮を置いた。
原稿を引き寄せ、前文の最後に赤ペンで書き込んだ。
(玉置昭彦、佐山達哉)
フルネームの署名原稿。北関初だ。
悠木は岸を見上げた。
「今夜は何か予定があるのか」
「いや、別に」
「だったらラストまで付き合え」
言って、悠木は玉置の原稿を突き出した。
岸は最初の数枚を読んで顔色を変えた。悠木に向けた険しい目が、ふっと笑った。
悠木は田沢を見た。レジャー面の仮刷りに目を落としている。
「田沢」
返事をしない。
「お前も目を通しておいてくれ。読んだら吉井だ」
反応は確かめずに、悠木は席を立った。
歩き出した時はまだ迷っていた。粕谷局長。追村次長。等々力社会部長。三人のうちの誰に話すか。
昨日だったら真っ直ぐ局長室に向かっていた。追村と等々力を飛ばして最大級の屈辱を与える。追村に義理はない。等々力は佐山の現場雑観を潰した。だが──。
悠木は壁際に向かった。
等々力は席にいた。その前に立つ。
「部長」
ブラウンのレンズが上がった。
「何だ?」
悠木は机に両手をついた。顔を近づけ、言った。
「抜きネタを打ちます」
「モノは?」
悠木は睨み付けるように等々力を見た。念を送る。今度は潰すな。
「事故原因です」
レンズの奥で目が見開いた。
「固いのか」
「ほぼ。これからウラを取らせます」
等々力は首を回して壁の時計を見た。
「時間は押しそうか」
「おそらくは」
「段取りを言ってみろ」
「締切を一時間延ばして午前一時に。それでも間に合わない時は一時半まで待つ──現場にはそう伝えてあります」
言葉に、等々力の判断の余地を残した。
等々力は腕組みをした。
「一時半──二版制を組むってことだな」
悠木は頷いた。
第一版は≪農二圧勝≫でフィルムを作り、輪転機を回す。刷り上がった順にトラックで発送する。そうしなければ遠隔地の販売店に新聞が届くのが大幅に遅れるからだ。勝負は日付が変わった後になる。佐山からウラが取れたと連絡が入った時点で一旦輪転機を止める。一面を≪事故原因は隔壁破裂≫のフィルムに差し替え、残りの部数を刷る。佐山が電話を寄越す時間にもよるが、スクープの載った第二版の新聞が配られるのは全県の三割程度。もし佐山の連絡が一時半近くにまでずれ込んだなら、配付は前橋市内のみ。うまくして高崎の一部までだ。
それが問題だった。
「このネタは藤岡と多野郡に二版が届かなければ意味がありません」
「確かにな──だが、藤岡・多野コースのトラックを最後に出すとなると、刷り上がりが二時として、関越を使っても上野村までは二時間掛かる。販売店着は四時を回るぞ」
「やる価値と必要があると思います」
「販売と全面戦争になる」
望むところだ。悠木は目で等々力に伝えた。
沈黙の間があった。
「わかった。一時半がデッドだ」
等々力はきっぱりと言った。
「ただし、一版のほうは零時十五分には降版しろ。抜きネタが行くのは、前橋と藤岡・多野だけでいい」
異存はなかった。
「それと、藤岡・多野コースのトラックを引き止めておく必要があるぞ」
「昔の手を使います」
「あれか?」
「そうです」
「時代が違うぞ」
「他に方法が思いつきません」
悠木は踵を返した。数歩先で背中に声が掛かった。
「悠木──」
首だけ振り向いた。
「局長と次長には話したのか」
「いえ」
レンズの奥の目が微かに揺れた。
昼間の借りは返した。
雑念は消え去り、五感のすべてがスクープに向き合った。