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クライマーズ・ハイ36
日期:2018-10-19 13:56  点击:328
      36
 
 悠木は二時間ほど眠って家を出た。
 出社する前に前橋市役所に車を回し、四階の記者室に顔を出した。前橋支局長の工藤をつかまえるつもりだった。安西が倒れた時の状況を消防本部の人間から耳打ちされた。そう田沢が言っていたからだ。
 記者室には依田千鶴子が一人いて、窓際の机で原稿を書いていた。他社の記者は根こそぎ日航に投入されているということだろう。
「支局長は?」
 悠木が声を掛けると、千鶴子は髪を振って顔を向けた。紅潮している。
「いません」
 思いがけず強い口調だった。
「どこへ行ったんだ?」
「知りません」
 同じ口調で言って、千鶴子は北関の原稿用紙に目を戻した。ボールペンは動かない。書けずに苦労している。それも田沢が言っていたことだった。
 工藤はおそらく競輪だ。日航に部下を取られて仕事が回っていかない、前倒しで千鶴子を寄越せと本社に泣きついておきながら。
 少し待ってみて戻らなかったら出社しよう。そう思って悠木はソファに座った。テーブルの上に全社の新聞が揃っている。一番上に毎日が置かれていた。一面トップの記事だから嫌でも見出しが目に飛び込む。≪「隔壁」破裂が有力≫──。
 喉に渇きを覚えた。
「依田──コーヒーを淹れてくれ」
 返事がなかった。
「依田」
「………」
 髪で顔も見えない。
 悠木は立ち上がった。部屋の隅の給湯室に足を向けた。
「淹れます」
 尖った声がして、千鶴子が駆け寄ってきた。真っ赤な顔がクシャクシャに歪んでいた。
「いい。原稿を書いてろ」
「淹れますから」
「そんなツラで淹れてもらっても旨くない」
 言った悠木を、千鶴子は涙目でキッと睨んだ。
「本社と一緒にしないで下さい。お茶汲みするためにここにいるんじゃないんですから。他の社の女性記者、そんなことさせられてる人、一人もいませんから」
 荒ぶれた手が、千鶴子が手にしていたマグカップを弾いた。床に落ち、割れた。
「あ……!」
「女だから淹れろって言ったんじゃねえ。お前がぺえぺえの一年生記者だから言ったんだ」
 悠木は記者室を出た。
 駐車場で車に乗り込んでも、興奮は収まらなかった。記者時代、いつも言っていたようなことを口にしただけだ。だが……。
 怒鳴ることはなかった。
 網膜には「隔壁」の活字があった。
 未練……。まだそこから一歩も抜け出せていない。
 本社へ行く。皆の反応はどうか。
 悠木の判断に異論を唱えた者はいなかった。だが、わずか四時間後に届いた毎日新聞に同じ内容のスクープが華々しく載っていた。
 千鶴子の顔は猿のように赤かった……。
 悠木は舌打ちを連発してハンドルを道に向けて切った。

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