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週休二日は隔週実施だ。第三土曜日なので北関本社の正面玄関は開いていた。
悠木は重い足取りで階段を上がった。三階の編集局。見飽きたボロ扉が何やらぶ厚い壁のように感じられ、入るのに幾ばくかの勇気を必要とした。
午後二時を回っているというのに、大部屋は眠たげな空気に包まれていた。「幻のスクープ」の後遺症とでも言うべきものだった。極度の興奮と落胆。そのギャップの大きさが、こうした怠惰な空気を生み出す。
すれ違った数人は、悠木の顔をまともに見ずに会釈した。デスクのシマには田沢だけがいた。椅子の背もたれに目一杯体重を掛け、これみよがしに毎日の朝刊を開いていた。穏やかならざる悠木の内面がそう見せる。何も田沢は悠木が現れてからそれを読み始めたわけではなかった。
「ゆうべは面倒掛けたな」
素っ気なく言って、悠木は自分のデスクについた。田沢は顔を向けずに、ああ、とだけ答えた。
悠木は開き直る思いで部屋を見渡した。局員の半数ほどが出てきている。が、局幹部が机を並べる壁際には一つの顔もなかった。
「お歴々は?」
「揃って局長室だ。専務と販売の伊東が押しかけてきてる」
興味なさそうに田沢は言った。
悠木は無言で頷いた。締切時間を引き延ばすために新聞輸送の出発を妨害した。その編集局に最大級の脅しを掛けるべく、販売局長の伊東が自分のボスである飯倉専務を担ぎ出してきたということだ。粕谷局長たちはさぞや劣勢を託《かこ》っているに違いない。
デスクの上には共同電の原稿の山が二つあった。悠木はそれを横にずらし、机の引き出しの中から便箋を取り出した。先に始末書を書いてしまおうと思った。上の出方次第では、進退伺いを書いてもいいと考えていた。
「悠木君──」
声に顔を上げると、亀嶋整理部長の笑い損ねた顔があった。
「ゆうべはご苦労さん」
「いえ、こっちこそ」
「お陰でいい夢見させてもらったよ。整理部的に言うと、真夏の夜の夢、って感じかな」
亀嶋に限って悪気などあろうはずもない。むしろ、悠木をいたわっての言葉だった。わかっていながら、悠木はひどく苛立った。外勤経験のない亀嶋は、同情された時の記者の惨めさを知らない。
自然、目も言葉もきつくなった。
「用件は何ですか」
「いや、だから隔壁だよ。今日組みの記事、どういう扱いするの?」
「ウチはまだウラが取れてませんから」
悠木がぴしゃりと言うと、亀嶋は目を丸くした。
「えっ? 知らないの?」
「何がです?」
「だってほら──」
言いながら、亀嶋は共同電の山を指で崩し、原稿の仮見出しを差した。
≪日航の刑事責任追及へ≫
悠木はビクッとした。刑事責任追及……いったいこれは……。
配信記事を貪《むさぼ》るように読んだ。
≪日航ジャンボ機墜落事故で、警察庁と群馬県警捜査本部、警視庁など捜査当局は十七日までに、業務上過失致死傷容疑で日航当局の刑事責任を追及する方針を固めた。捜査当局は、運輸省航空事故調査委員会(事故調)の「隔壁が破壊されて客室内の与圧空気が噴出し、垂直尾翼が損壊した」という機体構造上の事故原因説を重視しており──≫
悠木は絶句した。事故調査委員会が「隔壁」を口外した。つまりは、運輸省が毎日新聞の記事内容を肯定したということだ。そればかりではない。捜査当局も事故調の「隔壁原因説」に相乗りして一斉に動き出した──。
額に脂汗が滲んだ。指の間をすり抜けていったスクープの大きさを改めて思った。
悠木は亀嶋を見た。
「一面トップで追っ掛けます」
敢えて「後追い」を強調した。自分で自分を叩かねば、未練と自己嫌悪をどこまでも引きずると思った。
亀嶋は「了解」と軽く受けてデスクを離れかけたが、その足を止めて言った。
「そうそう、上毛は今朝、日航をトップから外したよ。ウチはガンガンやろうや。情報量で徹底的に押しまくる。特ダネの一本や二本書かれたって関係ないよ。最後になって総合優勝ってことになればいいんだから」
その背中が視界から消え去るのを待って、悠木は固く握った拳を太股に落とした。亀嶋に対する怒りではなかった。
なぜ上は悠木を呼びつけなかったのか。
朝方社を出て自宅で寝ていた。その間に隔壁原因説が固まり、捜査サイドにも大きな動きがあった。その情報を耳にしていながら、局幹部は誰一人、悠木のポケベルを鳴らさなかった。いや、そもそも、他社に出し抜かれたというのに朝方も電話一本寄越さなかった。
今度こそ、はっきりと思い知った。「人ごと」だからだ。取材も記事も共同に任せておけばいいと思っているのだ。地元紙の守備範囲である県内にジャンボ機が墜落した。五百二十人死んだ。なのに、「もらい事故」「場所貸し」の感覚ですべてが処理されていく。
悠木は、大部屋の奥の、局長室の閉ざされたドアに尖った視線を向けた。未曾有の航空機事故をどう報道するかではなく、社内のゴタゴタ回避に、より大きな時間と神経が割かれている。
始末書を書く気が失せた。悠木は便箋を引き出しにしまった。原稿の山を引き寄せ、仮見出しをざっと目で追った。
≪遺体九割収容 身元確認は二百七十六人に≫≪身元確認作業は難航 頼りは歯型と指紋≫≪「ひと目現場を」制止振り切り入山 苛立ち募る家族≫≪「子供をよろしく」墜落直前、妻子宛に遺書≫≪「しっかり生きて」社用の便箋に走り書き≫
原稿を読む意欲が湧かなかった。
悠木は局長室のドアを睨みつけた。そうするうち、視界がぐにゃりと歪んだ。
自分も同類なのだ。こうしてデスク職に甘んじ、そればかりか社内の揉め事にやきもきしている。
胸を掻きむしりたい衝動に駆られた。
悠木は受話器を上げた。県警記者室の北関直通に掛けた。すぐにキャップの佐山が出た。
「悠木だ」
〈何ですか〉
冷えた声に戻っていた。覚悟はしていたから、悠木は構わず用件に入った。
「神沢は今日も御巣鷹か」
〈そうです〉
「明日、俺も登る。神沢が連絡を寄越したらそう伝えてくれ」
佐山が黙った。
「聞いてるのか」
〈ええ〉
「入山規制はどうなってる?」
息づかいの後、声が戻った。
〈社の腕章があれば入れます〉
「奴は何時ごろ登るんだ?」
〈毎朝、五時か六時には役場を出てるようです〉
「どこで合流できる?」
〈ですから上野村役場です。二階のロビーで寝泊まりしてますから〉
「今日、隔壁を組む」
小さな間があった。
〈それで山へ、ってことですか〉
棘のある言葉だった。
「どういう意味だ?」
〈別に意味はありません。デスクが出張るまでもないでしょう。現場の手は足りてます〉
「一度見ておきたいんだ。頭の中が共同電のインフレになっちまってるんでな」
押しつけるように受話器を置いた。
現場は現場の人間がやる。言わんとしていることはわかるが、しかし、ああまで露骨に拒絶する佐山の内面が読み切れなかった。悠木を完全に見限った。そういうことか。
悠木は音に顔を上げた。
局長室のドアが開き、飯倉専務と伊東販売局長が出てきたところだった。
伊東と視線が合った。逸らす理由が見つからぬまま二人が近づいてきた。悠木は立ち上がった。
「君は随分と変わってるな」
言ったのは飯倉のほうだった。六十近いとは思えぬツルリとした肌。目つきの鋭さは社内一だが、その目は微かに笑っていた。
「写真一枚で福中のバランスをとる離れ業を見せると思えば、ゆうべのように、まったくの愚行に走る。脳が二つあるのか」
返答の難しい質問を投げかけて相手を翻弄するのが、この男の趣味なのだと耳にしたことがあった。
「昨夜はご迷惑をお掛けしました」
悠木は頭を下げずに言った。
「謝っている顔ではないな。舌も二枚あるのか」
「………」
「それとも、父親が二人も三人もいて礼儀を学びそこねたってことか」
悠木は白眼で伊東を見た。母の過去を飯倉に喋った。
「まあ、そんなことはどうでもいい」
飯倉は言いながら半歩進み出て、悠木の二の腕をポンと叩いた。
「あまり背伸びせず、身の丈にあった仕事をしろ。共同を大いに使えばいい。たっぷり金を払ってるんだからな」
怒りよりも落胆のほうが大きかった。万一、この男が白河社長に取って代わることがあっても北関は何一つ変わらない。
悠木はドアへ向かう飯倉の背中に言った。
「専務──安西の病室へ行きましたか」
飯倉は首だけ振り向いた。
「安西……? ああ、あいつか。まだだ」
「見舞ってやって下さい。安西は専務のために倒れたんですから」
「黙れ」
言った伊東を飯倉が手で制した。
悠木を見据えた両眼には、思わず息を呑む獰猛さがあった。
「言葉っていうものは怖いもんだぞ。案外、活字よりも心に残ったりするからな」
インテリやくざの本性をほんの少し覗かせ、飯倉は悠然と大部屋を出ていった。