38
粕谷局長は額にタオル地のハンカチを乗せてソファに沈んでいた。
「実際、参った。飯倉は蛇みたいにしつこい男だ。とうとう一筆とられたよ」
「一筆……?」
悠木は聞き返した。始末書なら悠木が書くことで決着したはずだ。
「お前にも言っておく。向こう一カ月、降版は午前零時厳守だ」
悠木は思わず上体を乗り出した。
「まさか、呑んだんですか」
「呑まされ、書かされた」
「午前零時……何があってもですか」
「何があっても、だ」
「日航を背負ってるんですよ」
「その日航で躓《つまず》いたんだ。仕方あるまい」
悠木と粕谷は同時に重たい息を吐いた。
追村次長と等々力社会部長は黙りこくっている。ともに渋面だ。相手が伊東局長一人ならまだしも、飯倉専務に加勢されては勝ち目がなかった。
「で、今日の紙面はどうする?」
粕谷は力のない目で悠木を見た。
悠木はメモに目を落とした。佐山に冷や水を浴びせられ、半分はデスクの頭に戻っていた。
「一面で隔壁を追い掛けます。それと、甲子園で農二が三回戦をやっているので、勝っても負けても一面に入れます。社会面は乗客の遺書で作るつもりです」
「何だ、それは?」
「墜落直前の機内で、乗客が家族宛に書いたメモが幾つか発見されたようです。まだ中身には目を通していませんが、たとえ走り書きでもニュースバリューがあるかと」
「わかった。それでいってくれ」
投げやりな言い方だった。
悠木は続けた。
「それと、今日も諸々の日航記事を関連紙面に盛り込むつもりでいます」
追村の怒声に備えたが、視線すら向けなかった。いったい飯倉にどんな魔法を掛けられたのか。
「しっかし、もったいなかったよなあ」
粕谷が伸びをしながら言った。
悠木は粕谷の口元を睨んだが、声は止まらなかった。
「ゆうべのアレ、打っときゃ、万々歳だった。飯倉のインテリにも、ああまで言われなくても済んだんだ」
一度でも事件を齧《かじ》った人間がそれを言ったら終わりだ。ましてや粕谷は編集局の長だ、悠木がどれだけ反対しようが、載せる気になれば載せられた。
「じゃあ、いいかな?」
粕谷は追村と等々力の顔を見比べ、最後に悠木に顔を向けた。
「始末書は総務には出さん。俺が預かるからザラ紙でいいぞ」
悠木は無言で頭を下げ、立ち上がった。ドアに向かって歩きだした時、追村が口を開いた。
「局長。そいつはちょっと甘すぎるんじゃないですか」
悠木は足を止めて振り返った。追村を見つめる。いたって静かな表情だった。
「俺はね、悠木を全権デスクにしたのが間違いだったと思いますよ」
「追村──」
よせよといった感じで粕谷が言ったが、追村の声量は却って増した。
「今回のことではっきりわかった。こいつは根っからの臆病者ですよ。大きな判断を迫られると必ず逃げちまう。そんな程度の器ってことだ」
悠木は体ごと追村に向いた。
「器については否定はしませんが、俺がいつ臆病風に吹かれました? 具体的に言って下さい」
「なんだあ、その言い草は?」
火種が癇癪玉に引火したようだった。
「兵隊の頃からだよ。書けって命じるたびに、やれウラが取れてない、もう一日調べたいってよ。お前、それで何本抜きネタ駄目にしたよ?」
「次長はどうなんです。ウラも取らずに書いて、何本誤報を飛ばした?」
「野郎、ふざけたこと言うんじゃねえ!」
「二人とも、よさんか」
粕谷が大きい声を出した。等々力も立ち上がり、掴み合いになったら割って入ろうとの構えを見せた。
追村はなおも吠えた。
「てめえのお陰で大恥を掻かされたんだぞ。飯倉にせせら笑われ、伊東にでっかい口を叩かれたんだ。てめえが小心だからだ、この優柔不断野郎が!」
「だったら、何でゆうべ打つって言わなかったんだ」
悠木も弾けた。
「次長の仕事って何だよ? 屁理屈こねてタダ飯食らってるだけじゃねえか!」
「て、てめえ……」
追村の顔が蒼白になった。粕谷と等々力が、追村の肩と腕を掴んで押さえつけた。
「言い過ぎだぞ、悠木」
等々力が諫めたが、悠木は追村の両眼から目を離さなかった。
「飯倉に言われて騒ぐんじゃねえ。どうせ騒ぐなら抜かれた時に騒げ。あんただって事件屋だろう。プライドってもんがねえのか!」
言うだけ言って、悠木は局長室を出た。
筒抜けだったのだろう、フロアのすべての顔がこっちに向いていた。悠木は床を蹴りつけるような足で真ん中の通路を突っ切り、デスクのシマに戻った。岸が驚いた顔で立っていた。出社したばかりらしい。ショルダーバッグを肩から下げたままだ。
「おい、どうしたよ?」
「何でもない」
「毎日の件か」
「だったらいいんだけどな」
悠木はどかっと椅子に腰を下ろした。胸と腹が激しく波打っている。
「なあ、悠木──」
「待て」
視界に追村が入っていた。壁際の席には向かわず、ぷいと部屋を出ていった。社長室に行って悠木更迭の上申でもするつもりか。勝手にやるがいい。何なら、こっちが進退伺いを書いてやる。
岸が遠慮がちに寄ってきた。
「こんな時だが、ちょっと耳に入れときたい話があるんだ」
「後にしてくれ」
遮ったが、岸は早口で告げた。
殴った……?
悠木は岸の顔を見上げ、声を殺した。
「神沢が殴った? 誰をだ?」
岸は腰を屈《かが》めた。耳打ちに近い。
「暮坂だ」
胸を強く突かれた気がした。広告部長の暮坂──。
「なぜ殴った?」
「そいつがわからん。ただな、場所は墜落現場らしい」
耳を疑った。
「どういうことだ……? 暮坂が御巣鷹に登ってたっていうのか」
「そういうことになるな」
「理由は? まさか物見遊山か」
「わからん」
「ネタの出所は?」
「写真部の連中がコソコソ話してたんだ。今日、神沢と一緒に登った遠野《とおの》が見たらしい」
「遠野に聞いてみなかったのか」
「今、暗室だ」
悠木は荒い息を吐き出し、その拍子に膝の上で両拳を握っていたことに気づいた。局長室を出る前からそうしていたに違いなかった。開くと、手のひらに爪の赤い痕《あと》が幾つもついていた。また握る。強く、痛いほどに。
そう、殴りたい奴は山ほどいる。時間と競走しながらナマモノの新聞を作っているのだ。喧嘩や罵声の応酬はしょっちゅうだ。だが──。
新聞社といえども、会社組織であることに変わりはない。理由はどうあれ、下の者が上を殴ったとなれば、その人間は会社にいられなくなる。しかも殴られたのが暮坂だ。相手が悪い。
去年まで政治部デスクをしていた。部長昇進の餌に釣られて広告に行った。悠木はそうとばかり思っていたのだが、酔った等々力が漏らしたところによれば、暮坂は白河社長に疎んじられ、編集から追い出されたという話だった。「大久保連赤」のすぐ後、櫛の歯が抜けるように記者が辞めていった時期、白河はこれぞという部下を慰留するために、自分の家で産まれた子犬を分け与えた。暮坂はその「犬奉行」の一人だった。にもかかわらず編集を追われた。白河と、その傘下にある編集局を恨みに思っている。実際、悠木は暮坂の屈折した内面を垣間見た。日航二日目の紙面で、オープン広告を無断で外してしまったからだった。非はこちらにあったが、暮坂は古巣の編集局を踏みつけにするかのように罵詈雑言《ばりぞうごん》の限りを尽くした。
〈だから編集の連中はいつまで経っても苦労知らずのボンボンだって言われるんだよ。一円も稼がねえで、俺たちに食わせてもらってるんだ〉
角張った赤ら顔が網膜にあった。
あの暮坂を殴った──。
悠木はおもむろに受話器を掴み、神沢のポケベルを呼んだ。
五分待ったが応答がなかった。
県警記者室に電話を入れた。誰も出ない。しつこくコールすると若い女が煩《うるさ》そうに出た。他社の記者だ。
〈北関さん、誰も姿が見えませんよ〉
佐山と神沢のポケベルを鳴らした。
応答がない。
悠木は内線番号表に手を伸ばした。広告局の頁を開き、広告企画係の番号をプッシュした。
〈はい、企画〉
「宮田を頼む」
〈そちらは?〉
「事業だ」
ややあって宮田が電話口に出た。事業局からだと思って出たわけだから、悠木だと告げると、声に困惑が混じった。
〈どうしたんです?〉
「ちょっと内々で聞かせてくれ」
互いに「登ろう会」のメンバーだから、こんな話ができる。
「暮坂部長のことだ」
〈今日は休みを取ってますけど〉
「知ってる。御巣鷹山に行ったんだろ?」
〈あ、いえ……〉
宮田は口籠もった。
「口止めされてるのか」
〈えっと、編集の人には……って〉
「こっちはもう知ってるんだ。小声で答えろ。暮坂部長はなぜ御巣鷹山に行ったんだ?」
〈いや、それは聞いてませんけど……。でも、おそらく話材を拾うためだと思います〉
「話材? 何だそれは?」
〈平たく言えば世間話のネタです。スポンサー回りをする時に話が弾むように、いろんな話を仕込んでおくんです〉
カッと頭に血が昇った。墜落現場を見てきた話をダシにして広告を取ろうというのか。
〈朝礼の時なんか、みんなで一つずつ考えてきて、互いにネタを教え合ったりします。毎日のことだから結構考えるのが大変で〉
宮田は屈託がなかった。無理もない。記者経験がなければ、加工されたテレビの現場映像を幾ら見せられても死体や死臭を連想しない。だが──。
暮坂は違う。政治部が長かったが、駆け出し時代は事件事故の場数を踏み、「大久保連赤」の際も応援取材班の一員に加わった。
その暮坂が日航を「商売」に利用しようとした。それに怒った神沢が手を上げた。そういうことか。考えにくい。暮坂は利口な男だ。話材にするために登るなどと編集の人間に話すとも思えない。いや、そもそも──。
「ウチの神沢って記者を知ってるか」
〈ええ、部長はその神沢君に頼み込んだようですよ。生まれが同じ吉岡村で近いから〉
腑に落ちた。神沢と暮坂、そしてカメラマンの遠野は一緒に御巣鷹を登ったのだ。問題はその後だ。なぜ神沢は……。
「この電話のことは忘れてくれ」
受話器を置いた悠木は、岸のデスクに体を伸ばした。
「ちょっと写真部に行ってくる。佐山か神沢から電話がきたら回してくれ」
「わかった」
悠木は立ち上がった。足に強張りがあった。
ドアまでは普通に歩いたが、廊下に出ると小走りになり、階段は全力で駆け上がった。
御巣鷹山でいったい何があったのか。
悠木の脳裏には、己の心をコントロールできずに泣き続けた、数日前の神沢の姿が生々しくあった。