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悠木が自分のデスクについたのは、午後七時半を回っていた。
日航関連の原稿は、波を打つようにして岸のデスクの端へなだれ込んでいた。社を出る前に出稿したのは、一面トップ用の≪刑事責任追及≫と≪隔壁≫の二本だけだった。
悠木は椅子を思いっきり引いた。指の関節を鳴らし、その指を絡めて両手首を回した。原稿を引き寄せる。それだけ仕分けしておいた、社会面トップ用の≪遺書≫に取りかかった。
読み始めてすぐ、熱いものが込み上げた。
死を覚悟したビジネスマンが、家族に宛てた遺書だった。妻や子供の名を綴り、そして、その後は……文字が滲んで読めなかった。
悠木は両手で顔を隠し、懸命に文字を目で追おうとした。だが、難しい。辛うじて視床を通過していくフレーズ。≪パパは本当に残念だ≫≪さようなら≫≪子供達のことをよろしくたのむ≫≪本当に今迄は幸せな人生だったと感謝している≫。もう一つの遺書。≪子供をよろしく≫。さらに別の遺書。≪しっかり生きろ≫≪立派になれ≫──。
悠木はしばらくの間、動くことができなかった。
声が出せる。そう確信してから悠木は立ち上がった。手をメガホンにして整理部に怒鳴った。
「カクさん! 一面差し替え!」
亀嶋が血相を変えたのがここからもわかった。
「どうやるのさあ!」
「肩の道路ネタ外して、遺書を入れる!」
亀嶋が走ってきた。
「なんでだよ? 社会面トップで十分じゃないのか」
悠木は無言で原稿を突き出した。
亀嶋は怪訝そうな顔で読み始め、だが数秒後にはくるりと悠木に背中を向けた。
原稿は亀嶋によって大量にコピーされ、局員全員に配られた。誰もが目頭を押さえた。嗚咽《おえつ》を漏らす者やトイレに行くふりをして席を立つ者もいた。
悠木は関連原稿に没頭していた。
≪農大二、宇部商に惜敗≫
負けていた。思わず溜め息が出る。
≪運輸省・事故機復元へ回収急ぐ≫≪尾根に衝突、エンジン一個脱落≫≪点検項目に隔壁など追加≫≪SR型の点検指示なし≫≪安全より利益の日航経営≫≪機長の乗務時間、異常な長さ≫≪与圧かかり思考力奪う≫≪ボイス、フライトレコーダーの公表を・参院運輸委が決議≫
一段落して壁の時計を見ると、九時を少し回っていた。早番の岸と田沢の姿は既になく、悠木一人デスクのシマにいた。
両手を突き上げて大きく伸びをした。そうしながら、右から左へと視線を移していった。その視線をゆっくりとまた右へ戻していく。
肌で感じるということだろうか、原稿に赤ペンを走らせつつも、何とはなしに大部屋の空気の変化に気づいていた。熱気が薄れた。奇妙なほど落ちつき払っている。喧騒は相変わらずだが、殺気立ったところがない。昨日まで部屋中を包んでいた、ヒリヒリとするような乾いた空気が、微かだが湿りけを含んでいるようにも感じられる。ひとことで言うなら、それは「日航以前」の大部屋の表情に近かった。
最初の山場を越したから。
そんな言葉が悠木の頭に浮かんでいた。
八月十七日組み十八日付の紙面が間もなく仕上がる。墜落は十二日の夜だった。指折り数えてみる。今日が六回目の「日航紙面」だ。明日で一週間。一サイクル。やはり、そうしたことが人の心に小さな区切りを与えるものなのだろうか。
昨夜、「隔壁」を打たなかったことが局員の士気を下げ、日航報道に対する熱を冷めさせたことも確かだ。事故原因はマスコミにとって最大級のネタだった。取り逃がした今、それに匹敵するスクープは当面見当たらない。あるとすれば刑事訴追だ。日航本社の家宅捜索。責任者の逮捕、もしくは送検。それらの情報を事前にキャッチし、スクープを放つ。だが、明日明後日のネタではない。県警の志摩川が口にしたように、三年先まで待たねばならないのだ。
まるで夢を見ていたかのようだ。世界最大の航空機事故。その報に大部屋は驚嘆し、大混乱に陥った。墜落場所がわからず、まんじりともせずに朝を迎えた。生存者がいたことに歓喜した。「隔壁」に沸騰し、ものにできず臍《ほぞ》を噛んだ。そして今夜、犠牲者の遺書に流した局員の涙が、熱に浮かされていた大部屋の空気に湿りけと落ちつきをもたらした。
悠木もまた、平静を取り戻し始めている自分に気づいていた。
詳報でいく。その思いは、もはや揺るがないだろう。局内の日航熱が冷めつつある中、全権デスクがいつまでのものかはわからないし、昼間やり合った追村次長があのまま黙って引き下がるとも思えない。だが、いつ任を解かれようとも、その瞬間まで方針にブレをきたすことなく紙面の指揮を執る。そんな使命感にも似た思いが、気負いなく、確かなものとして胸にあった。
午後十時を回った。出稿を終えた悠木は受話器を取り上げた。
神沢と、そして、「隔壁」のネタを引いた玉置のポケベルを呼んだ。
ともに応答はなかった。
県警の記者室に掛けると、待ち構えていたかのように佐山が出た。
「用件は二つだ。まず、心配するなと神沢に伝えてくれ」
〈何を……です?〉
佐山は惚けた。
「そこにいるんだろう? 山の件は心配するなと言ってやれ」
〈……わかりました〉
「それと、これも神沢に伝言を頼む。明日、御巣鷹に登ると言ったが登らない」
〈えっ? じゃあ、いつ登るんです?〉
「わからん」
思案の間があった。
〈延期でなく、中止ということですか〉
「そうだ。今回はお前らの目を借りて見ることにする」
思いは伝わったようだった。電話を切ろうとした悠木を佐山が慌てて引き止めた。
〈ちょっと待って下さい。いま神沢と代わります〉
佐山の声が消えてみて、身元判明の会見が行われていることがわかった。事故発生以来、記者室は一睡もしていない。
〈……神沢です〉
消沈した声だった。
「佐山に話した通りだ。気に病むな」
〈ありがとうございました〉
「明日も登るのか」
〈はい。川島さんと上がります〉
川島と……。心にスッと明るい光が射し込んだ。
悠木は受話器を置き、が、ふっと思い立ってまた掴み上げた。支局の電話一覧表を見ながら番号をプッシュする。
〈はい、北関前橋支局です〉
「悠木だ。コーヒーを淹れてくれ」
笑い声と〈バカ〉が一緒くたに耳に返ってきた。千鶴子の素《す》の声を聞くのは初めての気がした。
「原稿の書き方は佐山に教えてもらえ」
もう一度〈バカ〉を聞いて電話を切った。
十一時半。一面の大刷りが出た。
≪本当に今迄は幸せな人生だったと感謝している≫
大部屋はいつになく静かだった。
思わずにはいられなかった。自分にこんな遺書が書けるだろうか。
悠木は病室の安西に思いを馳せた。
家族に何も言葉を残さず眠りについた。手術の後、ほんの一瞬だけ意識が戻った安西は「先に行っててくれ」と言葉を発したという。悠木への伝言に違いなかった。衝立岩を登ることは、安西にとってそれほどの意味を持つことだったのか。
≪しっかり生きろ≫
≪立派になれ≫
はにかんだ燐太郎の顔が浮かんだ。
安西は死を覚悟していたわけではなかったろう。だが、それでもなお思うのだ。一言でいい、燐太郎に何か言葉を残してやって欲しかった。そうしたなら、どれほど燐太郎は心強いだろうか、と。