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空に声が響いた。
「悠木さーん! 聞こえますかあ」
「おーう、よく聞こえる」
「ビレーポイントに到着しました。自己確保を外して登ってきて下さーい」
悠木は二人用テラスで真上を見上げていた。頭上にかぶさる第一ハングの威圧感は尋常ではない。燐太郎はたった今、無事、乗り越した。
悠木の番だ。
ザイルをぐっと握り締めてみる。その先端は上に伸び、ハングの向こうに消えている。だが、恐れることはない。このザイルは燐太郎と繋がっているのだから。
「行くぞ!」
「落ち着いて」
悠木はザイルに導かれるように登攀を開始した。
ハングの左端に向かって登る。中央付近にわずかに存在するハングの切れ目、そこがウイークポイントだ。慎重な手と足で、逆層の垂壁を蟹歩きのような恰好で右にトラバースしていく。
ハング下に着いた。
恐々《こわごわ》見上げる。黒々とした岩が頭上に横たわっている。この庇に出口などあるのだろうか。雲稜第一ルートの前半最大のポイントだ。登攀全体の核心部分と言ってもいい。アブミと呼ばれる、縄ばしごを小さくしたような登攀用具を使う。そのアブミを、岩に打ち込まれた残置ハーケンに掛け替えながらハングを乗り越す。高度な技術とバランスが求められるだけでなく、ここでもたつくと体力と時間の消耗が後の登攀に少なからぬ影響を与える。下手をすれば、垂壁にぶら下がって一晩ビバークなどということにもなりかねない。
それもこれも燐太郎の受け売りだ。衝立に備え、随分とゲレンデでアブミ登攀の訓練を積んできたが、実際にオーバーハングをアブミで乗り越すのは今回が初めてだった。
「ハングに取り掛かる!」
「じゃあ、思い切りよくスピーディーに登っていきましょう」
燐太郎はアドバイスの的《まと》を外さない。
悠木はハーケンにアブミを掛け、そのアブミに足を掛けた。庇の下にぶら下がる感覚だ。風に揺られる。さっきまで頬に心地好かったその風が、悪魔の使いのように感じられる。アブミの縄段を上に登る。腕を懸命に伸ばし、次のハーケンにアブミを掛け替える。また足を掛ける。上の縄段に登る。その作業を繰り返しながら、じわりじわりと登っていく。「うんてい」をやっているような恰好だ。時折、背中が遥か下の地面と平行になる。やはりバランスが難しい。悠木をアシストするために、トップでいった燐太郎はさぞやザイルワークに気を使ったろう。ルートがくねっているので、雑に登るとザイルの流れが悪くなる恐れがあるからだ。
岩とアブミとの格闘は一時間に及んだ。
悠木はとうとう行き詰まった。残置ハーケンの間隔が遠すぎる。アブミの最上段に足を乗せないと、次のハーケンに手が届かない。だが、最上段まで上がるとバランスを失いそうで、アブミを登る勇気がどうにも湧いてこない。
胸が苦しかった。百メートルを全力疾走した後のように息が上がっている。傾斜が九十度を超えると加速度的に体力を消耗するんです。登る前、燐太郎が言っていたことの意味を体が知った。足が地に着いていないから、体を支えるのに腕に頼ることが多くなり、腕力も急速に失われていく。アブミにしがみついていた指先も痺れてきた。
カーンと下の岩場で音がした。悠木はハッとした。ポケットから何かが落ちたのだ。首を反らせて下を覗くと、カラビナがバウンドしながら岩場を転がり落ちていくのが見えた。かつて味わったことのない高度感。背筋がゾクッとした。視線を戻した。眼前には分厚い岩の庇。アブミの最上段に乗る以外に突破する方法はなかった。だが、その一歩がどうしても踏み出せない。
五十七歳。
不意に自分の歳を意識した。
声を張り上げていた。
「おーい! 落ちるかもしれん。頼むぞ!」
「大丈夫ですよ。落ちたら、僕が引っ張り上げますから」
明るい声だった。
引っ張り上げる。そんなことができるはずがない。思った時、また燐太郎の声がした。
「悠木さーん。そこは思い切って最上段に登ってくださーい」
悠木は驚嘆した。
燐太郎には見えているのだ。姿は見えなくても、悠木の置かれている状況も、胸の裡も。
熱い思いが込み上げた。
安西が生きていたらどれほど喜んだろう。
下りるために登るんさ──。
燐太郎と山に登りたい。きっと安西の気持ちはそうだった。ただ苦しい場所から逃げ出そうとしたわけではなかった。安西はいつか燐太郎と衝立岩に登るつもりでいた。そうしたくて、だから「下りる」決意をした。「ロンリー・ハート」に行き、自分ではない自分を清算し、それから衝立岩に向かおうとしたのだ。
安西は、悠木を「証人」にするつもりだったのではあるまいか。やっと手にした安定した生活だった。北関の一員であることへの未練もあった。それを断ち切るために悠木を衝立に誘った。安西は再び山屋の道を歩き出そうとしていた。俺のこれからを見ていてくれ。証人になってくれ。そう悠木に言うつもりだった。
先に行っててくれ──。
安西は、何としてもこの衝立に来たかったのだ。
「悠木さーん!」
燐太郎が呼んでいる。
その顔が目に見えるようだった。心配なのに、少しも心配してなさそうな……。
悠木は微笑んだ。
今度は淳の顔が浮かんだ。十七年前のあの日、弓子と勘違いして振り向いた、ばつの悪そうなあの笑顔だった。
初めて親父に山に行こうって誘われた時、なんか嬉しかった──。
淳も呼んでいる。
強張っていた四肢が、ふわっと柔らかくなった気がした。狭まっていた気道が開き、体に新しい空気が取り込まれた。
やるしかないのだ。アブミの最上段に上がらねばハングは越せないのだから。
悠木は十七年前の決断を思い出していた。
墜落事故から七日目、日航全権デスクとして下した最後の決断だった。
最も辛く、厳しい決断だった。
その結果は──。
悠木は目を閉じた。
右足を上げ、アブミの最上段に乗せた。
体が大きく揺れた。
ままよ。左足も乗せた。
目をカッと見開き、体を思い切り反らして、上のハーケンめがけて腕を伸ばした。
あと五センチ……。
悠木は、この衝立岩に勝ちたいと思った。