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二十分ほどして地下に下りた。
足は自然と速まった。自分の靴音だけが反響するがらんどうの廊下を抜け、食堂に入ると、天窓のある壁際の席に白いTシャツ姿の若い女が座っていた。
互いに顔は知っていた。六日前にも高崎市内の霊園で会った。悠木を睨み付けた。懸命に。そんなふうに見えた。
食堂は二人の他に客はいなかった。洗い場も静まり返っている。休憩時間に入ったのだろう。
悠木が歩み寄ると、彩子は立ち上がってきちんと頭を下げた。逆光に近いから、Tシャツや茶色っぽい髪の縁が淡い光を帯びている。
テーブルで向かい合って座った。彩子は簡単な自己紹介をした。思っていた通り、望月亮太の従姉妹だった。望月の父親の弟の一人娘。歳は二十歳。県立大学の二年生。ひどく童顔だが、黒目がちの瞳に力と確かな知性が感じられて、どうにか歳相応に見える。素性がはっきりわかってみても、悠木は落ちつかなかった。目の前の彩子の内面がまったく読めない。
「最初に謝らなくちゃならない。また電話をすると言ってしなかった」
「お忙しかったんですよね」
彩子は微かに笑って言った。皮肉や厭味の混じり気はないが、しかし何やら深い思いの籠もった、予《あらかじ》め用意してきた言葉に聞こえた。
「私、日航機事故の記事、毎日読んでます。大学でメディア論とジャーナリズム史をとってるので」
悠木は眩しげに彩子の顔を見つめた。
「それで、今日は?」
彩子は悠木を見つめ返した。
「大学で習うより、貴重な体験をさせてもらいました」
次の言葉を待つほかなかった。
「この二日間、私、あなたからの電話を待ってました。でも掛かってこなかった」
「すまなかった」
「そう、お忙しかったんですよね」
「ん」
「人の命って、大きい命と小さい命があるんですね」
悠木は息を呑んだ。
頭は空転していた。それでも彩子の言葉は痛みを伴って胸に染み渡った。
彩子は続けた。
「重い命と、軽い命。大切な命と、そうでない命……。日航機の事故で亡くなった方たち、マスコミの人たちの間では、すごく大切な命だったんですよね。私、そのことがわかったんです」
何と答えていいかわからなかった。
「私、八年前に父を交通事故で亡くしたんです。育英会のお世話になって高校まで卒業して、今も奨学金いただいて大学に通ってるんです。寂しくはありませんでした。亮ちゃんのところの伯父と伯母がすごくよくしてくれて、亮ちゃんも本当の兄のように遊んでくれましたから」
アイスコーヒーの氷はすっかり溶けていた。彩子がストローの紙袋の封すら切っていなかったことに悠木はいま気づいた。
「父は左官ですごく優しい人でした。悔しくてたまりません。父は全然悪くなかったんです。横断歩道を渡っていて、なのに、飛ばしてきたオートバイに轢かれてしまって」
彩子は胸元に両手を当てた。その胸の辺りが大きく波打っていた。
「重体でした。新聞にも小さく出ました。私、大学に入ってから図書館で調べたんです。ベタ記事って言うんですよね、社会面の一番下に十二行載ってました」
「………」
「三日後に死んだんです。でも、死んだことは新聞に載らなかった。事故が起きてから二十四時間以上経ってから亡くなると、警察は死亡事故の扱いはしないんですよね。だから統計の数字にも父の死は含まれてないし……」
彩子は探るように悠木の目を見つめた。
「新聞だって忘れちゃったんですよね。父、偉くもなんともなかったし、世の中からいなくなってもどうってことないし。小さくて、軽くて、大切じゃない命だったから……。だから、重体で病院に運ばれたこと、記者の人、忘れちゃったんですよね。父が死んだことに誰も気づかなかったんですよね」
彩子はハンカチを取り出して目元に当てた。息を大きく吸い込んで、それを強く吐き出し、気を取り直したように真っ赤な目と鼻を悠木に向けた。
「亮ちゃんだって、あっと言う間に忘れられちゃったんでしょ? さっき、編集局にお邪魔して、そうしたら皆さん、冗談とか言い合って笑ってました。一回、記事が出て、それでもうお終い。同じ会社で働いてたのに、きっと誰も亮ちゃんのこと思い出したりしないんですよね」
「それは違う」
悠木は言った。自己弁護のためでなく、彩子のために言った。
「みんな思い出す」
「うそ」
「ずっと思い出してるわけにはいかない。だが、思い出す。本当だ」
言っていて、胸が締めつけられた。「戦線離脱」。望月が汚名を被ったことによって、悠木は社内的に救われたのだ。
彩子は小さく顎を突き出した。
「あなたが亮ちゃんを死なせたんですよね」
悠木は彩子の目を見つめて頷いた。
「そうだ」
「だったら」
涙の底に沈んだ彩子の瞳が、挑むように悠木を見た。
「ずっと思い出していてあげて下さい」
悠木はまた頷いた。
「亮ちゃんのこと、いつも思っていてあげて下さい」
さらに深く頷いた。今にも心が潰れそうだった。
「私、ずっと思い出していますよ。十五の時からずーっと」
掠れた声が震える唇を割った。
「いけませんか? 従兄弟を好きになっちゃ」
それから二人は一言も口をきかなかった。
十分ほどして、彩子は立ち上がった。
「一昨日は伯母に頼まれて電話したんです。もう月命日には来ないで下さい」
悠木も席を立った。
「わかった。二度と行かない。そう伝えてくれ」
「それと──」
彩子はビニールのバッグの中を指先で探った。二つ折りのレポート用紙を取り出し、悠木に差し出した。
「これ、私なりに考えた小さい命のことです。『こころ』の欄に載せて欲しいんです。前にも一度、投稿したことがあったんですけど、ボツになったみたいで」
「わかった。載せると約束する」
「ありがとうございます」
彩子はまたきちんと頭を下げて、食堂を出ていった。
靴音が遠ざかり、消え、悠木は脱力感に襲われて椅子に腰を落とした。
体全体が鉛のように重かった。
二十歳──悠木の半分しか生きていない娘がメディアの本質を見抜いていた。
命の重さ。
どの命も等価だと口先で言いつつ、メディアが人を選別し、等級化し、命の重い軽いを決めつけ、その価値観を世の中に押しつけてきた。
偉い人の死。そうでない人の死。
可哀相な死に方。そうでない死に方。
脳裏に、老婆の顔が浮かんでいた。
安西の見舞いに県央病院を訪れた時に見かけた老婆だ。一階ロビーには大画面テレビが置かれていて、藤岡市民体育館の映像が流れていた。顔にハンカチを押し当てた若い女性が、別の初老の女性に肩を抱かれながら歩いている場面で、長椅子の端に座っていた老婆が呟いた。
あんなに泣いてもらえればねえ……。
羨んだのだ。墜落事故で亡くなった人のことを。
自分が死んでもあれほど悲しんでくれる人はいない。老婆は知っているのだ。
あの待合室にいた、表情のない人々の群れ……。
望月亮太の顔が思い出された。
小さな命……。軽い命……。
馬鹿な。決してそんなことはなかった。だが……。
悠木は無理やり思考を断ち切った。腕時計を見た。もう三時半を回っていた。わざと勢いよく立ち上がった。背筋を伸ばした。
何がどうあろうと、日航機事故から逃げ出すわけにはいかない。
悠木は食堂を出た。廊下を歩きながら、彩子が寄越したレポート用紙を開いた。
文面を目で追った。
まず足が止まった。読み進むうち、血の気が引いていくのが自分でわかった。
彩子は、さっき悠木に話したことの多くをそのまま文章にしていた。
体の芯が震えた。最後の四行がそうさせた。
≪私の父や従兄弟の死に泣いてくれなかった人のために、私は泣きません。たとえそれが、世界最大の悲惨な事故で亡くなった方々のためであっても≫