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「前橋、三十五・八度!」
午後五時を回り、大部屋の熱気は高まりつつあった。
悠木は自分のデスクで原稿に赤字を入れていた。
≪ボイスレコーダー・機長ら冷静に会話≫≪隔壁断面はぐにゃり≫≪身元確認は三百四十二遺体に≫
背後から佐山と神沢が声を掛けた。
「悠さん──」
悠木は振り向かなかった。
「悠さん、ちょっといいですか」
「………」
二人は横に回り込み、悠木の顔を覗き込んだ。
「ねえ、悠さん?」
「何だ?」
険しい目を向けた。二人は同時に息を呑んだ。
「あ、いえ、昨日の礼をと思って」
「いい」
「ご迷惑掛けました。どうもすみませんでした」
「もういい」
二人は顔を見合わせ、一歩後ずさりした。
悠木はこめかみに親指を押し当てた。頭蓋の中で、耳鳴りのような母の声が響いていた。
小さなことを 恐れなさい
大きなことは どうにもならない
小さなことを 恐れなさい
大きなことは どうにかなるの
小さなことを 恐れなさい
小さなうちに 恐れなさい
一番嫌いな子守歌だった。
悠木はポケットに手を突っ込んだ。
紙片の感触がある。
悠木に対する復讐なのだと思った。そうならよかった。そうなのだとしたら握り潰すこともできた。
違うのだ。
望月彩子は自らを晒していた。名前も、住所も、歳も、県立大学の二年生であることも、すべてレポート用紙に書き込んでいた。
匿名の闇の中から矢を放とうとしているのではない。
引き受ける気なのだ。この投稿が新聞に載り、想像しうる反響と反発のすべてを。
たった二十歳の娘が……。
この投稿は握り潰せない。結論はもう一時間も前に出ていた。だが──。
悠木は席を立てずにいた。
幾つもの理由を張りつけているが、ネギの皮を剥くように一枚一枚引っぱがしていけば、最後に残るのは保身だけだとわかっていた。
悠木は逡巡の中で受話器を握った。メモ書きを見て番号をプッシュする。五回目のコールで向こうの受話器が上がった。
〈はい、望月です〉
「北関の悠木だ。さっきはどうも」
〈あ、はい……何でしょう?〉
彩子の声は硬かった。
「あの投稿、本当に載せていいのか」
〈載せてくれるんですか〉
「ん」
〈ありがとうございます。よろしくお願い致します〉
受話器を握り直した。
「怖くないか」
彩子は小さく笑ったようだった。
〈怖いのは、悠木さんなんじゃないですか〉
「そうだ」
悠木も微かに笑った。
受話器を置き、席を立った悠木の顔は強張っていた。
大部屋中央のシマ。『こころ』担当の稲岡が、歩いてくる悠木に気づいて手を上げた。
「日航特集、うまく組めたよ」
悠木はポケットの中からレポート用紙を取り出し、稲岡のデスクの真ん中に開いて置いた。
「内容がダブってるのを外して、代わりにこいつを入れて下さい」
「ほう、二十歳の女子大生かい。悠木君も隅に置けんな」
軽口はそこまでだった。
稲岡は見開いた目で悠木を見上げた。
「ま、まさか、これを……?」
「そうです」
稲岡は仰《の》け反《ぞ》り、反動で体を戻して顎を突き出した。
「じょ、冗談じゃないよオ! 俺の定年を一年早める気か」
「稲岡さんには迷惑掛けません。とにかく組み直して下さい」
「嫌なこった。なんでこんなもの載せなくちゃならないんだ? 日航事故の罹災者や遺族に対する冒涜だろう」
「れっきとした市民の意見です。新聞社の常識とやらで握り潰すわけにはいかんでしょう」
「だからって──」
騒ぎを聞きつけて、整理部員や他のデスクが集まってきた。彩子のレポート用紙が手から手と渡った。
「うひゃあ!」
亀嶋が素っ頓狂な声を上げた。
「悠木君、いくらなんでもこいつはまずいや。確かにある面、言い当ててるとは思うよ。だけど、新聞はどっかの機関紙じゃないんだ。いろんな人が読むんだから」
周囲からも反対の声が続々と上がった。
「ひどすぎますよ! こんなの載せたら、明日の朝、抗議電話の嵐ですよ」
「望月って……? ひょっとして望月亮太の関係者じゃないんですか」
皆の目が一斉に悠木に向いた。
「奴の従姉妹だ」
溜め息とブーイングが重なった。
「だったらどうした?」
悠木は尖った目で周囲を見回した。
岸が耳元で囁いた。
「悠木、何があったか知らんが、やめとけ。こいつはヤバすぎる」
「何があったかわからんのなら口を出すな」
岸の背後にいた田沢と目が合った。いつもならすぐに逸れる二人の視線が絡みあったまま動かなかった。
「悠木!」
背後で怒声が上がった。追村次長がレポート用紙を手にしていた。
「貴様、気でも狂ったのか!」
「………」
「この新聞は遺族も読むんだ! お前が言ったんだろうが、家族待機所にサービスで配れって。千人からの遺族がこの怪文書を読むんだぞ。忘れたのか!」
「怪文書……?」
悠木は追村を睨んだ。
「誹謗中傷の類いだろうが! 遺族が黙ってないぞ。社に押し掛けてくる。そうなったらどうする? 北関が他社の取材対象になっちまう恐れだってあるだろうが」
「遺族が文句を言うはずがない」
「おい、市民が書いたからなんて逃げは通用せんぞ。載せた北関の責任が問われるんだ」
「そんなことは当たり前でしょう」
「貴様、ナメてんのか!」
追村が悠木の胸ぐらを掴んだ。
「北関を潰す気か! 遺族の神経逆撫でして何が面白い!」
悠木は追村の胸ぐらを掴み返した。思い切り締め上げて言った。
「遺族が騒ぐ? 肉親を失った人間が、あの娘の気持ちをわからないはずがないだろうが!」
大部屋は一瞬、静寂に包まれた。
「載せるぞ。いいな?」
悠木は追村の鼻先で言った。癇癪玉は破裂しきった感があった。蒼白の顔に怯えの筋が幾重にも走っていた。
数人が駆け寄り、悠木と追村を引き剥がした。稲岡が、悠木と追村を交互に見ながら言った。
「問題は最後の四行なんだ。こいつさえ切れば大丈夫だ。一般論に落ちつく」
「切るな」
悠木は言った。
稲岡は必死の形相だった。
「切るのは珍しくないんだ。こっちで加工してやんなきゃ、載せられる原稿なんて限られちまうんだ。どの原稿もみんなこっちで変えてるんだ」
「変えるのは名前だけだ。イニシャルで載せる」
「そんな──」
「加工した投稿が投稿と言えるのか。あんた、それでも記者あがりか」
稲岡は絶句し、虚空を見つめた。
「悠さん」
佐山が悠木の前に立った。
「望月の件が引っ掛かってることはわかります。だけど負い目に感じる必要なんてない。奴は自殺だったんだ。悠さんに責任はない」
「言うな」
悠木は目を閉じて言った。
佐山はやめなかった。以前、自分の父親のことを語った時の口調に似ていた。
「俺はね、自分の死を他人におっかぶせて苦しめるってやり口が許せないんですよ。最も卑劣な死に方だ」
「もう言うな!」
悠木は目を開いて周囲を見回した。
「俺は『新聞』を作りたいんだ。『新聞紙』を作るのはもう真っ平だ。忙しさに紛れて見えないだけだ。北関は死に掛けてる。上の連中の玩具にされて腐りかけてるんだ。この投稿を握り潰したら、お前ら一生、『新聞紙』を作り続けることになるぞ」
大部屋には多くの息遣いだけがあった。
悠木は言った。
「投稿は全文載せる。関わりたくない奴は、今から一時間、大部屋の外でコーヒーでも飲んでろ」