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声を発するいとまもなかった。
足場の感覚が喪失し、スッと体が落下した。それは一瞬にも永遠にも思えた。ザイルがビーンと音を立てて張り詰め、小さくはない衝撃を伴って体が停止した。
衝立岩の第一ハング。その巨大な庇の下で、悠木は宙吊りになっていた。
「大丈夫ですかッ」
緊迫した声が降ってきた。燐太郎の声だ。その姿は見えない。ハングを乗り越した上方の垂壁にいて、悠木のザイルを確保している。
「どこか傷めましたか」
すぐには返事ができなかった。落ちたショックが悠木の思考力を根こそぎ奪ってしまっていた。遥か下方に地上が見える。頭が下を向いていることだけはわかった。
「悠木さん、冷静に。今どんな状態か教えて下さい」
脳裏に、落ちる寸前の光景が蘇っていた。
あと少しでハングを越えられるところまでいっていた。不安定なアブミの最上段に上り、もう一つのアブミを握った右手を上に向かって懸命に伸ばしていた。岩に幾つもベタ打ちされたハーケンの一つに、アブミの先端のフックを掛けようとしていた。いける。そう思った途端、足元がぐらついた。膝が緩み、アブミの縄段から足を踏み外した……。
そう、一メートルも落ちていない。燐太郎が停めてくれたからだ。しかし、感覚的にはその刹那、悠木は奈落の底まで落ちた。
「悠木さーん、聞こえますか」
「ああ……聞こえてる」
悠木は虚ろに答えた。
「体は大丈夫ですか」
「平気だ……と思う」
「完全な宙吊りですか。アブミと離れてしまってます?」
「いや……」
完全な宙吊りではなかった。右足がアブミの一番下の縄段に「くの字」に絡んでいて、それを支えに逆さ吊りのような状態になっていた。
「アブミに足が引っ掛かってる。体は頭が下だ」
「わかりました。じゃあ、少し引き揚げて体を元に戻しましょう。ザイルを両手でしっかり握って下さい。足に力を入れて、アブミを逃がさないようにして下さいね」
「うん」
「いきますよ──さあ」
ザイルが引かれた。強く、頼もしい力だった。上半身が徐々に起きていく。頭に上っていた血が下がっていくのがわかる。
「どうです? 戻りましたか」
「うん」
「アブミを掴んで体を安定させて下さい」
「掴んだ」
「じゃあ、小休止しましょう。深呼吸をして気持ちを落ちつけて下さい」
「ああ、そうさせてもらう」
答えた自分の言葉はひどく弱々しかった。
悠木は上を見上げた。黒々とした巨大な岩盤が行く手を阻んでいる。こちらを見下ろし、嘲笑っているかのようだ。口の中に唾液はなかった。手も足もわなないている。体力も気力もすべて使い果たした感があった。そしてなにより、体の芯に食い入った恐怖心が悠木の気持ちを萎えさせていた。
無理だ。俺には登れない──。
弱音に歯止めを掛けるタイミングで、燐太郎が声を掛けてきた。
「そろそろいきますか」
「………」
「片割れのアブミは無事ですよね?」
落ちる寸前まで手にしていたアブミのほうだ。細引きロープで腰に繋いであったから落下は免れていた。
「無事だ」
「よかった。それじゃ、いきましょう」
「………」
「悠木さん、いきましょう。熱いうちに」
言葉だけではなかった。弛みをなくしたザイルを通じて燐太郎の思いがひしひしと伝わってきていた。冷めきってしまったら本当に登れなくなりますよ──。
だが、心に火は点かなかった。登りたいという衝動がこれっぽっちも湧いてこない。
恥を吐き出す思いで言った。
「すまない。どうにもハングを越えられそうもない」
「大丈夫。越えられますよ」
「無理だよ。ハーケンが遠すぎて届かないんだ」
「そんなはずはありません」
燐太郎は事も無げに言った。悠木は小さな反発を胸に言い返した。
「さっきやってみて駄目だったんだ。アブミの最上段まで登ったが届かなかった。一番近いハーケンでも俺には遠すぎるんだ」
「届くはずです。だって──」
燐太郎の声に力がこもった。
「そのハーケン、淳君が打ち込んだんですから」
えっ……?
悠木は上を見上げ、瞬きを止めた。
あっ……。
ベタ打ちされたハーケン。錆の浮いたそれらの中で、一番近い場所に打ち込まれたハーケンだけが銀色の鈍い光を発していた。
「黙っていてすみませんでした。実は先月、一緒に登ったんです」
悠木はぽっかりと口を開けたまま瞬きを重ねた。
一緒に……? 淳と燐太郎が……?
「下見に来たんです。失礼ですけど、やっぱり、悠木さんは本格的な岩登りは初めてですから」
燐太郎の声が朗らかになった。
「淳君ね、オヤジは歳だから、これじゃハングを乗り越せないだろう、って。それで一枚ハーケンを足したんです」
顔が見えない分、燐太郎の言葉は真っ直ぐ胸に滲み入ってきた。
淳が……。俺のために……。
悠木は熱い息を吐き出した。
指を動かしてみた。
拳を握った。ぐっ、と力が入った。
心とか、気持ちとかが、人のすべてを司《つかさど》っているのだと、こんな時に思う。
悠木は顔を上げた。アブミの縄段を上りはじめた。揺れを抑えるために一歩一歩踏みしめながら、時間を掛けて最上段まで上がった。
銀色のハーケンが、さっき挑んだ時よりも近くに感じられた。
片割れのアブミを頭上に差し上げた。怯える足を叱咤し、背伸びをするように懸命に膝と腕を伸ばした。体中の筋が軋んだ。腕の付け根が抜けてしまいそうだった。あと五センチ……三センチ……。必ず届く。信じているからこそ十秒も二十秒も無理な体勢を維持できた。
アブミの先端のフックがハーケンに触れた。汗だか涙だかが邪魔をして、肝心の一瞬は見逃した。
カチン。
耳に心地好い金属音が山に谺《こだま》した。
親子の対話に水をさしたくなかったのだろう、燐太郎は黙し、ただザイルを通して静かな祝福を送ってきた。
そのザイルは東京にいる淳にも繋がっている。きっと、十七年前の、あの日の淳にも──。