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悠木は午後十時前に北関本社を出た。昼間、容赦のない陽射しに晒され続けた空気は、どこにも逃げ場がないのか、この時間になっても重たいガスのごとく辺り一面に垂れ込めていた。
駐車場から車を出した。
望月彩子の掠れた声は、社を後にしたからといって耳から遠ざかることはなかった。
〈人の命って、大きい命と小さい命があるんですね〉
〈重い命と、軽い命。大切な命と、そうでない命……。日航機の事故で亡くなった方たち、マスコミの人たちの間では、すごく大切な命だったんですよね〉
その言葉に心打たれて決断した。彩子が悠木に託した一文を、日航全権デスクとして読者投稿欄に載せるようごり押しした。
最後の四行が目に焼きついている。
≪私の父や従兄弟の死に泣いてくれなかった人のために、私は泣きません。たとえそれが、世界最大の悲惨な事故で亡くなった方々のためであっても≫
ハンドルを握る悠木の手は強張っていた。
載せねばならなかった。逃げるわけにはいかなかった。思いはそうだが、括ったはずの腹が、ふっ、ふっ、と断続的に揺らぐ。読者の反応はどうか。抗議の電話が殺到するか。日航機事故の遺族も待機場所で北関を目にする。たった一件でも遺族からの抗議が寄せられたなら、社を辞するほかないと悠木は考えていた。
もう家が近かった。
日航機事故が発生して一週間、弓子が起きている時間に帰宅するのは初めてのことだった。降版まで見届けずに済んだのは、『こころ』の担当デスクである稲岡が、男気とも破れかぶれともとれぬ態度に出たからだった。
≪悠木君、社会部ばっかりが記者だと思うなよ。これはこっちの仕事だ。僕が責任を持って紙面に組むから、君は帰ってくれ≫
その言葉に悠木は甘えた。無性に弓子の顔が見たかった。会社を辞めることになるかもしれない。そのことだけは今夜中に話しておかねばと、義務感に近い思いが胸に広がってもいた。稲岡はもとより、悠木の啖呵《たんか》で大部屋を外した局員は一人としていなかったが、次長の追村は「お前は終わりだ」と吐き捨て、自分のデスクで何本もの電話を掛けていた。たとえ遺族からの抗議がなくとも退社に追い込まれる。恐れを伴ったその読みは、駐車場に車を入れるころには確信めいたものへと変化していた。
サツ廻り記者時代からの習慣で、玄関の鍵は自分で外す。熱気の溜まった沓脱ぎに入るとすぐ、居間のほうから笑い声が聞こえてきた。弓子と由香……淳の声もする。
みんなまだ起きている。嬉しさと戸惑いの入り混じった思いで短い廊下を歩いた。
「あら、早い」
弓子が目を丸くした。由香はテレビの前で女座りしていて、「パパ、お帰りなさい」と明るい声を発した。その由香の隣で胡坐《あぐら》をかいていた淳は──瞬時、目が合ったが、悠木が居間に入るなり、くるりと背中を向けてテレビ画面に見入った。夏休みだからだろう、子供が喜びそうな恐竜映画のようなものをやっている。
悠木はソファではなく、キッチンテーブルの椅子に腰掛けてネクタイを外した。ソファでは淳との距離が近すぎる。ぷいと席を立たれ、せっかくの団欒《だんらん》が一瞬にして崩壊してしまうのが怖かった。
弓子がいそいそと寄ってきた。
「何か食べる?」
「いや、食ってきた」
「ねえ、何かいいことあった?」
「えっ……?」
悠木は弓子の目を見た。笑っている。
「そんなふうに見えるか」
「見える。なんか嬉しそうな顔してる」
嬉しそう……?
悠木は思わず自分の頬を手荒に撫でた。
「お風呂張る? あたしたちはシャワーにしちゃったんだけど」
ネクタイを受け取りながら、弓子は少しばつが悪そうに言った。節水を心掛けているわけではないが、その単語は頭の隅にあるのだろう。
「張ってくれ」
悠木が言うと、弓子は風呂場へは向かわず、キッチンの床下収納を開いてビール瓶を二本取り出し、冷蔵庫に納めた。
悠木はテレビの前の二人を見た。
「由香──巨人・大洋はどうだった?」
「あ、知らない。『タッチ』のあと『セーラ』見てたから」
聞かずともわかっていた。由香は阪神戦以外には興味を示さない。
社の大部屋ではNHK特集が掛かっていた。『尾翼に何が起きたか──検証・日航機墜落事故』。その「検証」の二文字に、事故発生からの時間の経過を感じていた。嵐と呼ぶべき時間は、やはり過ぎ去ったのだ。
悠木は居心地悪そうに首と肩を回した。由香の次は淳。思ってはみるが、映画に見入っているその後ろ姿に、掛ける言葉が浮かばなかった。
いや……。
悠木は宙に目をやった。
「なあ」
風呂場から戻った弓子に声を掛けた。
「なあに?」
「ちょっと座れ。実はな──」
手短に安西が倒れた話をした。弓子は心底驚いたようだった。
「そんなことって……。ねえ、目を開けたまま眠ってるって、それ、植物人間──」
記者の妻だ。差別用語や不快用語は自然と避ける。弓子は「植物状態ってこと?」と言い直した。
「そうだ。遷延性意識障害って言うらしい」
「意識……戻ることあるの?」
「稀にはな」
重たい息とともに弓子の体が萎《しぼ》み、「奥さん、かわいそう……」と口の中で呟いた。
「安西のところ、燐太郎って一人息子がいるんだ」
「知ってる。淳と同級の子よね」
「これからたまにウチに連れて来たいんだ。奥さんは病院で大変だからな。飯を食わしてやったりとか」
「そうして」
話の途中で弓子が言った。
「いつでも連れて来て。あたし、できるだけのことするから」
由香が振り向いていた。淳も半分はこちらに顔を向けていた。
「お前らも頼むな」
自然な口調で言えた。
由香は目を輝かせた。
「ねえパパ、その子、どんな子?」
「いい子だよ。ちょっと無口だけどね」
「カッコいい?」
「うーん、それはどうかな。優しい顔してると思うけど」
「ふーん」
「なあ、淳」
テレビに戻り掛けた横顔をつかまえた。
「その子のお父さん、すごく山登りがうまくてな、父さんも習ったんだ。そのうち、燐太郎君も連れて一緒に山に行ってみようや」
淳の反応を見る間もなく、由香が黄色い声を上げた。
「ずるーい! あたしも行きたい」
「ああ、もちろんいいけど、由香は休みの日はバレーボールがあるだろ」
「あ〜ん、つまんないの。バレー、辞めちゃおうかなあ」
「山って、どこ?」
淳が抑揚なく言った。目線は悠木の胸の辺りに向けられていた。
「榛名とか妙義とか、いろいろさ。気持ちいいぞ。空気はうまいし、高いところに登るとスカッとするしな」
手振りを交えて話していた。
淳の視線が宙を泳いだ。迷っているのではなく、想像の翼を広げている表情に見えた。
「どうだ? 行くか」
「……考えとく」
ボソッと言って淳はテレビに顔を戻した。お兄ちゃん、ずるい、ずるい。由香が淳のシャツを引いて体を揺らせた。うるさがる淳の顔に、しかし、微かな笑みが浮かんでいた。
悠木は風呂で思いに耽った。
罪悪感と、ささやかな充足感とが交錯して気持ちは斑《まだら》だった。燐太郎を利用して淳の気を引いた。いや、燐太郎だって喜ぶ。きっと救われる。そう強弁してみるが、四十年間付き合ってきた自分の心根の弱さと賤《いや》しさが薄められるはずもなかった。
湯を両手で掬い、顔を覆う。
長い一日だった。そんな感慨が胸を過《よぎ》りもした。
望月彩子……。
重い命と軽い命……。
大切な命と、そうでない命……。
もはや考えても仕方のないことだった。決定したのだ、彩子の投稿は明日の北関の紙面に載る。
ふと、弓子の言葉が頭に浮かんだ。
〈ねえ、何かいいことあった?〉
あれは何だったのだろう。嬉しそうな顔をしていると弓子は言った。本当に自分はそういう顔をしていたのか。そんなはずはない。気持ちは張り詰めていた。会社を辞めることになるかもしれない。そう弓子に打ち明けるつもりだったのだから。
バスタブから出ようとして、悠木ははたと動きを止めた。
辞めたがっている……?
いや、逃げたがっているということか。
何から?
日航機事故からか。それとも、北関から……。
あり得そうなことだった。自分の心の中に目を凝らしてみれば、北関を辞する幾つもの動機と理由を見つけることができるだろうと思った。
悠木は思考を投げ出して風呂を出た。
居間には弓子が一人いた。光も音もない黒々としたテレビ画面は、悠木に安堵と落胆をもたらした。
「寝たのか」
「たった今ね」
まだ冷えてないけど、と言いながら弓子はビールをグラスに注いだ。
悠木はソファに腰を沈め、テーブルの上の北関に手を伸ばした。裏を返してテレビ欄を見る。数日前まで番組表を埋めつくしていた「日航」の活字はめっきり減って、タイトルに「!」や「?」を多用したバラエティが復権とばかりに幅をきかせていた。
「4チャンを掛けてくれ」
「事故の?」
「ん。スポーツニュースのあと、ドキュメントをやるみたいだ」
リモコンでテレビを点けると、弓子は隣に座り、あたしも一杯だけ、と言ってグラスを手にした。
会社でのことはなかなか切り出せなかった。辞めたがっている。弓子に内面を見透かされているのだとしたら、言えば立つ瀬がなくなると思った。
「あなた」
弓子がテレビ画面を見たまま言った。小さな決心が横顔に覗いていた。
「あんまり気にしないほうがいいと思う」
「何をだ?」
「淳のこと──あの子ね、あなたのこと嫌ってるわけじゃないのよ」
悠木は身を硬くした。
「なんて言ったらいいんだろう、あの子、不器用で、うまく繕えないだけなのよ。あなたとそっくりなだけ」
「………」
弓子の顔が悠木に向いた。
「もう少し大人になったら吹っ切れると思う。きっとわかると思う。あなたは憎くて叩いたりしたんじゃないんだもの。だから、あんまり焦らないで。ゆっくりとやればいいのよ」
「………」
「聞いてる?」
「お前が頼りだ」
悠木は思わず口走った。
「いつまでもあいつらの太陽でいてやってくれ。お前さえそうなら淳も由香も大丈夫だ」
「太陽? やだッ」
弓子は笑い出した。
「オーバーねえ。だから、淳も構えちゃうんだってば」
夫婦だからこそわかりあえること。夫婦であっても永久にわかりあえないこと。その境界線に立たされている気がして悠木は息苦しさを覚えた。
母の子守歌が耳の奥にあった。
太陽であってほしかった。そう渇望して生きてきた。
ほどなく弓子が休み、悠木は一人、居間で虚ろな時間を過ごした。
巨人・大洋戦の結果を知ることなくスポーツニュースが終わった。日航機事故のドキュメントも頭に入ってこなかった。
悠木は部屋の中をぼんやりと眺めていた。
日焼けして色のくすんだ窓のカーテン……何度目かの結婚記念日に買った白い壁時計……弓子がいっとき夢中になったパッチワークのタペストリー……由香が金賞をとったので三年も貼ったままになっている版画のカレンダー……淳がプラ模型のタイヤで傷つけた床の黒い痕……何気なく置かれた木彫りの人形や造花を挿した花瓶……家族旅行の土産にした温泉地の暖簾……。そんな諸々をいとおしく感じた。ささやかな、しかし、確かな営みを留める家の歴史が目に眩しかった。
社を追われ、職を失ったら、この家を売ることになるのだろうか。記者は潰しがきかない。ライターの仕事といっても地方では総量が知れている。一家四人が食べていくのは至難に違いなかった。東京に出るか。だが、中央には人脈も働き口のツテもない。開拓するにしても、さしたる専門分野を持たない四十歳のライターを使ってくれる場所など果してあるだろうか。
この家を失う。どこかの町の小さな部屋に移り住む。それでも弓子は太陽のままでいてくれるだろうか。
自分を嘲笑った。
もう四十だというのに……。
悠木は、無為に重ねた年齢を呪い、そして、人生の四つ角から不意に現れた、望月彩子という無垢な女を呪った。