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クライマーズ・ハイ56
日期:2018-10-19 14:11  点击:1173
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 衝立岩の懐に飛び込んだ実感があった。
 オーバーハングの出口が近づいていた。悠木は眼前の岩を舐めるように体をせり上げた。頭が庇の突端を越えた。途端に視界がぱあっと開けた。目に飛び込んできたのは、岩壁ではなく空だった。秋の雲がぽっかりと浮かんだ青い空──。
 さらに体を持ち上げると岩壁が目に入り、その垂直の壁に、アブミに乗ったままザイルを確保する燐太郎の姿があった。満面の笑みだ。
「やりましたね、悠木さん!」
「うん、やった。やったよ」
 悠木は感極まっていた。登れた。最難関の第一ハングを乗り越せた。五十七歳の初挑戦で突破した。そしてそう、淳がほんの少し助けてくれた。
 燐太郎の高さまで体を持ち上げた。腕時計を見た。驚いたことに、ハングに取り掛かってから二時間以上が経っていた。
「眺めがいいでしょう」
 燐太郎が自慢するように言った。
 悠木はその視線を追った。湯檜曾《ゆびそ》川を挟んで、白毛門《しらがもん》から笠ケ岳へ続く稜線に雲が流れていく。
 美しかった。目眩を感じるほどに。
 ここに至る十七年間の出来事が胸に去来した。多くの顔が瞼に重なり合う。
 佐山はこの春、編集局次長に抜擢された。経験。力量。人望。誰もが頷く順当な人事だった。依田千鶴子は、佐山千鶴子となって男の子を三人産んだ。一人目を産んだあと記者として職場復帰を望んだが果たせなかった。送別会では少し寂しげに挨拶した。「仕事は星の数ほどありますけど、家庭は世界中でたったひとつですから」。無理して言ったように聞こえた。自分を納得させるために口にした言葉だったかもしれない。それでも今は幸せそうだ。佐山もすっかり父親ぶりが板に付いた。三男の名は「悠三《ゆうぞう》」という。「悠さん」をもじって付けたんですよ。佐山と千鶴子は笑いながら話したものだった。
 神沢は日航機事故から一歩も離れなかった。『今日にも日航本社を家宅捜索』『運輸省関係者ら二十人を書類送検』。次々と華々しいスクープを放った。日航取材がすべて終わった後、中途採用試験を受けて共同通信社に移籍した。「世界中の事件を書きまくりたいんスよ」。北関を辞める少し前、神沢はぐでんぐでんに酔って何度もそう言った。日航機事故取材を終えた「空白」を埋めようともがいていたのだと思う。今は札幌にいる。いまだ独身だというから、寝る間も惜しんで事件を追い回しているのだろう。
 望月彩子は日航機事故の三年後、北関に入社した。最初から気構えが違った。他社が恐れるほどの敏腕記者に成長し、女性で初めて県警キャップを任された。自分のほうが余程詳しいのに、年に何度か、警察のことを教えて下さい、と草津に立ち寄る。無垢なところは変わらない。今もなお、大きな命と小さな命の狭間で悩み続けている。
 北関は大きく変わった。白河は失脚し、後任の飯倉も新社屋建設資金の不正流用疑惑で社を去った。漁夫の利を得た恰好の粕谷が社長の座に就いて久しい。追村は役員室でふん反り返っているという話だが、等々力は道を違《たが》え、県立大学講師の職にある。同期の岸は編集局長、田沢はいまや人事を与《あずか》る総務局長だ。その二人から、季節が変わるたびに「本社に戻らないか」と打診が来る。
 悠木は十七年間、草津通信部から動かなかった。地元に根を張った。由香が東京の大学へ入った後、高崎の家を売り払い、草津に居を構えた。弓子だってすっかり「山の女」だ。草津の湯をことのほか気に入ってもいる。来年は勧奨退職年齢に達する。嘱託になっても記者は続けていきたいと思う。畑を耕しながら、村の小さな出来事を書き続けていけたらいい。
 下りるために登るんさ──。
 安西の言葉は今も耳にある。だが、下りずに過ごす人生だって捨てたものではないと思う。生まれてから死ぬまで懸命に走り続ける。転んでも、傷ついても、たとえ敗北を喫しようとも、また立ち上がり走り続ける。人の幸せとは、案外そんな道々出会うものではないだろうか。クライマーズ・ハイ。一心に上を見上げ、脇目も振らずにただひたすら登り続ける。そんな一生を送れたらいいと思うようになった。
 風が、白いものの目立つ髪を揺らした。
 悠木は燐太郎に顔を向けた。
「約束だぞ」
「えっ? 何ですか」
「上に行ったら話す──さっきそう言ってたろう」
「ああ、そうでした。実は僕、来年、チョモランマを目指します」
 悠木は頷いた。やはり「山屋」は地球上で一番高い場所に立たないと気が済まない生き物なのだろう。
「それで?」
 悠木は先を促した。下の二人用テラスで話をした時、燐太郎が頬を染めたのを見逃してはいなかった。
 燐太郎は今度も頬を染めた。いや、耳や首まで真っ赤になって言った。
「チョモランマから戻ったら、由香さんを僕に下さい」
 弓子に聞いて知っていた。由香は、燐太郎のことが好きで好きでたまらないのだ、と。
「今度は俺がトップで登っていいかな?」
「えっ……?」
「やってみたいんだ、トップを」
「あ、はい。それはいいですけど……」
 悠木はザイルを握り締めた。新たな力が湧き上がるのを感じていた。
 安西──心の中でその名を呼んだ。
「じゃあ、行こうか」
 悠木は岩に手を伸ばした。
 燐太郎があたふたする。
「悠木さん……あの、由香さんとのこと……」
 ここぞとばかり悠木は言った。
「上で話す」
 二つの真顔が同時に崩れた。
 明るい笑い声は澄みきった空気を伝い、谷川の山々すべてに響き渡った。
 

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