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なぜぼくはここにいるのか03
日期:2018-10-25 23:28  点击:291
   千年王国への旅
 
 五年程前、交通事故に遭って二年ばかり仕事を休んだことがある。ぼくは元来芸術家というより職人的なタイプの人間だから交通事故のため入院し、仕事が禁じられた時はくやしくって仕方なかった。というのも毎日仕事をしていなければ技術が低下するのではないかという心配があったからだ。とにかく仕事が遊びで、遊びが仕事でもあるように心の底から仕事を愛していたし片時も仕事のことは忘れたこともないくらい仕事が好きでたまらなかった。だから当時は依頼される全ての仕事を引受け、過密化した時間の中で時には超人的なスピードで多量の仕事を消化しなければならなく、こうした仕事が一掃できた時は得意になったものだ。それは精神的なものよりむしろ肉体的なスポーツのような技と勘を必要とし、心と身体は一体になって運動[#「運動」に傍点]の途中でいちいち考えるというようなことはしなかった。走っている途中でなぜ右足の次に左足が出るのだろうと考えたらその場で走れなくなってしまうことを知っていたので、心と身体を分離させるようなことは絶対にしなかった。
 ところが病院のベッドに四ヵ月も縛られてしまうと心と身体はシンクロナイズしなくなってしまい、いちいち理屈をつけなければ物事がスムーズに運ばなくなってしまった。行動が起せないため心が肉体を代弁しなければならなかった。心の中だけであれやこれやと考えをめぐらすだけで実際の行動がなく、まるで夢の中で走っているようなものだった。そんな意味でもぼくにとっては何とも非現実的な生活で肉体の苦痛よりむしろ精神の苦痛の方が大きかった。ぼくの心は肉体とのバランスに注意を向けていればよかったはずのものが、いつしか心自身の内部に目を向けなければならないようになってしまった。だからこの日から〈自分とは一体何者なのか?〉という哲学的なテーマにぶつかってしまった。そしてついに底なし沼のようなところに足をつっこんでしまい、右足の次にどちらの足を動かした方がこの沼から脱出できるだろうかと考えなければ肉体が運動を起せない状態になってしまった。
 思想イコール肉体の関係は崩れ、両者は全く他人同様の冷酷な関係でしかなくなった。思考と行動の矛盾が次第に暴露され、ついには自らのエゴイズムと闘わなければならない最悪の状況に追いこまれていった。自分自身が自分の敵になろうとは考えもしなかった。
 このようなことから本能のおもむくままの欲望がぼくを苦しめ、ますます惨めにしていくのがわかった。自分を苦しめる原因が全て自分であることが次第に火を見るより明らかになってきた。こんな時ぼくは何度か開き直り再び自らの外に出ようとしたが、あせればあせるほど沼の中に足はめり込む一方だった。
 藁をも把む気持で救いを求めた仏典は、ますますぼくを深みに突落してしまった。仏典がダメなら聖書、聖書がダメならバガバッド・ギーターと次から次へとあらゆる聖典にかじりついた。俗なるものの存在しか認めなかった者が聖なるものの存在を知った場合、俗なる欲望は聖なるものまで欲しくなってしまったのだ。俗なるものと聖なるものの中間地帯は食人種の股裂きの刑にあっているようなもので死ぬより苦しい。
 そこで思切って聖典の教えを実行してみることにした。あるところまでは問題なく進めた。ところが、どうしたことかある地点まで行くと他人の欠点ばかりが目立ってきた。自分は善行を施しているのに相手は自らの欠点に少しも気づかず、こちらに苦痛を与えるだけで一向に魂のレベルアップをする様子もないではないかと他人を批判するだけで、以前にも増してぼくは逆に粗雑な自分自身を退化させていった。
 しかし面白いことにはこのようなことも繰返している間に少しずつ他人への関心より自らへの関心に興味が湧き、自分自身が大きく変わりつつあることが実感できるようになった。このことは一種の恍惚感に似た喜びでもあり新しい発見でもあり、真の自由への入口に立ったような気さえした。そして自らへの愛が正しく問直されようとする一瞬でもあった。他人を愛する前に自分を愛することの重要性が単なる自己愛を越えた生命のレベルで考えられるような気がしてきた。仏教にカルマの法則というのがあるが、原因があれば必ず結果があり、それは再び自らに帰ってくるものと説かれているが、ぼくはこの教えを常に潜在意識にたたみこむよう訓練した。人間の幸、不幸もカルマの法則の結果であり、聖書の「求めよさらば与えられん」も想念の結果をいった言葉であり、求める心が強ければ時には奇蹟も起り得るかも知れない。
 ぼくが超常現象に興味を持つようになったのもこれらの現象の裏に必ずといっていいほど心の問題が関係しているからである。想念はエネルギーであり、四次元を通過して再び三次元に物体現象を起す。このようなことは神秘でもなんでもない、科学の領域で説明できることだ。もともとアトランティスやムー大陸が存在していた一万二千年前の古代文明の科学は人間自らが宇宙的存在であることを知り肉体や心を制御し、我々が今日解決できない多くの問題をすでに解決していたはずだ。
 現代のコマーシャルナイズされた終末思想はヒステリックではあるが何とも楽観的な感じがする。合理主義にささえられた終末意識はいくら合理的な方法で解決を求めても不可能だろう。我々人間は不可知の巨《おお》きな非合理の力によって支配されていることに無関心であるならばそれは大きな罪でもあり、人間の本来の在り方にさえ反しており、もし終末を迎えるようなことにでもなるならそれは自らの責任だろう。
 ぼくは自分のささやかな経験の中から宇宙の巨きな意識を感じることができたし、また、それは神と呼んでいい存在だろう。有限が無限の世界に通じ合った時、そこには永遠の平和と自由があると信じる。
 ぼくは宗教そのものは嫌いだ。しかし心を科学することにより自分自身と宇宙の関係を知ることができるはずだ。ぼくが今後描続ける世界はこうした四次元的な宇宙意識の世界である。輪廻転生の思想に裏づけられているぼくは至福千年王国の実現を信じ永遠に魂の旅を続ける覚悟でいる。そしてこのアクエリアスの時代に生れたことを心から幸せにさえ思っている。

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