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なぜぼくはここにいるのか05
日期:2018-10-25 23:29  点击:237
   九州のデザイン
 
 デザイン展の審査をしたのは、今回が二度目で、一回目もやはり九州の熊本だった。熊本の時もそうだったが今回の九州沖縄グラフィックデザイン展へは特に大きな期待を抱いて来た。
 ぼくがデザインを始めた十八歳の頃、ぼくにとって最も親しみを感じたのは九州のデザインだった。この頃ぼくは兵庫県の西脇という山間部の町におり、グラフィック・デザインのことをまだ商業美術と呼んでいた。この頃のデザインはほとんどが具象的で、非常に単純でわかりやすいものだった。デザインにまだ思想性が云々される以前で今からみれば大変おおらかな時代だった。
 そしてぼくはこんな中で特に観光ポスターが好きだった。このことはいまだに変わらず、現在のぼくの全ての作品はいつも観光ポスターを作るような気持でデザインしているので、画面の中にはたいてい風景を描く。
 当時の観光ポスターの傑作は北は北海道、南は九州という具合に日本列島の両端がその主流を握っており、中でも九州の作家は目白押しに観光ポスターの傑作を続出していた。だからぼくが一番最初に名前と作品を憶《おぼ》えたのは九州の作家だった。九州の人達の顔は一目見れば九州人とわかるように、作品も非常に個性的だった。
 そして今回熊本に次ぎこの展覧会のための応募作品を審査したのだが、驚いたことに大部分の作品が東京のそれらと区別することができないほどの変容ぶりを呈していた。応募者のほとんどが、十代や二十代の若者が中心であることが、東京と九州の距離を一つにした大きな理由だろうが、応募者の若者を見て九州男児という印象はどこにもなく、どう見ても新宿や原宿を歩いている若者と、その風俗において全く区別がつかなかった。
 さらに審査会場の窓から博多の風景を見て驚いたことに、そこには東京そっくりの風景があるではないか。まるで東京都博多区といったってちっともおかしくないくらいだ。だからこの発達した情報化社会の中で、ぼくが九州色を期待したり要求したりするのは無理なことだったのかも知れない。
 審査時にもできるだけ九州色の濃い作品を取上げるように努力したのだが、最終的に上位賞を獲得した作品は東京色の強いものとなった。入選あるいは落選の中に九州的な個性を表現した作品もたくさんあったが、テーマと造型がうまくマッチしなかったため、あるいは表現が未熟なためにやむなく入賞入選を逸した作品もあった。
 デザインの中に人間性を求めながら、これに成功した作品はどこか粗雑になってしまい、それに反して的確な造型処理した現代的な上手なデザインにはどこか人間性が欠如しているという具合に、この両者が結びつくということはなかなか困難なことのように感じられた。
 まあ今回のテーマが『人間性豊かな社会にするために、グラフィック・デザインは何をなしうるか』という難題を与えたことに応募者は振回された感が強く、文章《コピー》とデザインの関係が絵解きになって、思わずふき出しそうなものに出くわしたりもした。
 応募用紙には『単なる技法に終始することなく、新しいものへの転機を示す主張と表現を持った作品』と記されているにもかかわらず、入賞作品の一部は、その内容より技法に重点を置いた作品を取上げざるを得ない結果になったものもあった。この展覧会があくまで新人発掘という意味も兼ねているため、充分にテーマが消化しきれていなかったが、技術面において高度な水準に達したものは、ややテーマ性において甘い採点で入賞したのもあった。
 今回の人間性云々のテーマはあえてこのように社会的なものを主題に取上げなくても、本来デザイナーに確固たる社会意識が内在していれば、たとえ石ころひとつ描いても、そこにその作家の思想が表現されるはずである。デザインに思想や人間性を求める以前にデザイナーは一人の人間としての成長が要求されなければならない。そしてそこから初めて『グラフィック・デザインは何をなしうるか』というテーマに答えることが可能になってくるのだ。若い人達の作品は確かに現代感覚にあふれた新鮮な要素を持っていたが、訴求力という点では鑑賞者の魂を揺動かすまでには至らなかった。
 テーマが物質文明を否定しているにもかかわらず、その造型感覚がどうも物質文明的所産という感じがしてならない。しかしぼくがあの九州の観光ポスターを想う時、九州から次なる巨きな精神文明の胎動を感じとるのだが、今一度虚弱な東京の精神を九州男児の手でことごとく叩直してもらいたいと、大いなる期待を抱いている。

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