広告と偽善
ぼくはまず朝目覚めると一番に新聞を寝床で見ながら、徐々に意識を回復させていく。新聞の中でぼくが最も興味を持つ欄は、書籍と雑誌の広告欄である。以前は書籍雑誌広告に限らず、他の広告を見るのも楽しみのひとつだったが、最近はこれらのものに関しては全く興味を失ってしまった。
というのもあまりにもこれらの広告が魅力に欠けているからである。俗悪な週刊誌の広告が魅力的だというわけではないが、まだここには不思議なリアリティがあるだけましだ。特に大企業の乙にすましたデザイナーのきれいごとに終ってしまったような広告を見ると背筋が寒くなる。このような広告に限って世界の平和や人類の幸福を謳っているからどうにもおかしくって仕方ない。
この物質文明の頂点でさらに物を売ろうとする側の後ろめたさが、このような偽善的な広告を作る理由になっているのかも知れないが、もしかすると、この後ろめたささえもなく、本気で物を売ることに命を賭けているのかも知れない。
ぼくがこの種の広告より書籍広告に関心があるのは少なくとも精神を商売にしているからである。そりゃ中には金儲け主義者を相手にした本の広告もあるかも知れないが、それはそれなりに嘘はついていない。ことに正月の企業広告に至ってはもう破廉恥としかいいようのないものがある。�伸びゆく明日の日本!�とかなんとかいって空に鳩が飛んでいたり、日出の海の風景があったり、家族だんらんの笑顔の写真を堂々と掲載し、一方何食わぬ顔をして、公害を撒散らしたり、兵器を製造していたりするわけだ。
ぼくも以前大企業の新聞広告を作るデザイナーの一員として参加した経験もあったが、スポンサーにしても制作スタッフにしても、大衆を彼らより一段と低い位置において見ているところがあったようだ。だから常に大衆の望んでいるものを与えなければならないという優越的な立場から広告を制作していた。だいたいここに大きな誤りがあるのだがこのことに一向気づいていない。
「大衆が何を求めているか」というただこのことから頭が離れないのだ。「大衆が何を求めていない[#「いない」に傍点]か」ということを考えたなら、もう少し異なった広告もできるはずだろう。また、大衆が何を求めようが、そのようなことと無関係に自分が一体何を求めているか、という質問を自分に投げかけてみる広告人が果して何人いるのか。
ぼくの考えは広告作製に際して大衆のことなど考えなくてもいいという意見だ。広告人自身が大衆の一員である以上、たった一人の自分自身のために広告をすればいいと思う。人はエゴイストにできており最も自分を愛しているのだから、この愛している自分のために作った広告が最高に素晴しいはずだ。最初からいきなり大衆、大衆といってみても、それは制作者の傲慢で、結果として偽善的な広告を作る羽目になるだけである。このようないい方はかなり極論かも知れないが、このようにして作るより他に、方法はないのではないか、またこれでいいと思う。
最も愛する自分のために作った広告が最終的に他人のためになり得ることだってある。大衆というのは不特定多数の異なった個性の集団だから、この大衆すべてに一つの心を話しかけようとしてもそれは不可能なことだ。だからその大衆の中のたった一人の人間を選んで、そのたった一人のために広告をすればいいのだ。それは最も愛する自分であり、恋人であり、妻であり、子であり、親であってもいい。とにかく愛ほど強いものは他にない。
大衆を愛せよといっても、この中には悪人も善人もおり、好きな人間もいるかと思うと、嫌な奴もいる。こんなに多くの人間を一様に愛することができるキリストや仏陀のような広告人がいれば別だが、ぼくが知る範囲にはこのような聖人はいない。他人は愛さなくとも自分は愛するという人は、自分のため、また恋人なら愛することができるという人は恋人のために、愛する人のことだけを頭の中に描きながら広告を作ればいい。ただこのことだけが最終的に大衆のための広告になり得るのである。
最近のどんな広告を見ても、そこには心が感じられない。心の感じられない広告を作って大衆という心に訴えようとしているその心に、何か大きな欠点があるのではないか。美術や文学や音楽にわれわれが感動し、それにお金を払うのは作者の心に感動し、心を買っているからである。広告が文化である以上、心が存在しなければならない。もっと独善的な広告があって初めて文化となり得るのである。