変容の自覚
ある週刊誌(週刊読売)の、表紙デザインを始めた。あっという間に二ヵ月が過ぎた。実はこの仕事は、昨年末(1974)に依頼され、今年の新年号からスタートする予定であったが、なかなかアイデアがまとまらず、延び延びになっていた。年末から二十日ばかりインドに旅行し、この間に案を練る予定だったが、帰国後のぼくは完全にインドに呑込まれ、茫然自失という感じで、何ひとつ意欲がわかなくなっていた。
まだ結果を出すのは早急かも知れないが、このインド旅行により、ぼくの内部の何かが変容しはじめたような気がしてならない。だからこのような時期の仕事は大変つらい。変容の自覚があるために、今までの延長の発想がことごとくパターンに思え、過去に行くこともできず、そうかといって未来の予感さえなく、ただ無重力な現在の中で、あえぎ苦しんでいるだけだ。
この週刊誌の仕事を始める時、心に誓ったことがある。それは本塁打か三振バッターになることだった。ところが開けてみると、今年(1975)の開幕ジャイアンツとそっくりで、全く最下位を低迷しているという感じだ。B5という週刊誌のサイズにまだ慣れていないという事もあるが、それより何より、ぼくが従来の即製イメージを完全に否定しきれない弱さが、変にサービス化しているようだ。
それと最近ぼく自身が強く抱いているイメージがあるが、このイメージが逆に想像力の幅を縮小しているのではないかと考える。ここ数年間、ぼくは超自然現象への関心が急に高まり、宗教的世界に接近しつつある自分を知るのだが、このことが時には依頼された仕事の対象物とぶつかりあい、なんとも陳腐な作品になってしまう事さえある。この事はぼくの精神の未熟さをもろに露出した結果として、なんともいたしかねない。
事実、ぼくはこの週刊誌の表紙の事で連日悩んでいる。明快なコンセプトが立たないのだ。失敗を恐れるあまり、ついつい失敗を繰返しているのだろう。このことは週刊誌という巨大なマスプロダクションの、のしかかるような重力のせいも、ぼくに大きく原因しているに違いない。そんな証拠にぼくは毎週編集者に前号の売行を聞いている。売行を気にする時は、ぼくとしてはいつも最低の心理状況で、つまりスランプの時期なのだ。
スランプというのは、必ず定期的に容赦なくやって来る。ぼくの場合、いつも三年単位で訪れてくる。今年がその三年目に当る年だ。この事は昨年から、うすうす予感していたから、今年あたりは仕事を休んで、どこかのお寺にでも、籠るか、原始の旅にでも出るつもりでいたのだが、この事とは裏腹に、ついついこの仕事を引受け、ただいま悪戦苦闘中というところである。
まるで仕事場は居ながらにして、苦行場と化している。これではお寺に入らなくてもいい。ただいつ開眼するともわからぬこの苦行は、本当に投出したくなるほどだ。こんな文章を週刊読売の編集長が読まれると、ぼくに対する信頼度が急に薄れ、不安の材料を提供するだけになり販売部の人達は恐怖を抱かれるかも知れないが、そのうち近い将来、立直る事もあろう。
だいいち、ぼくがいま書いている事は、口外すべき事柄ではなく、ぼくだけが心の中でじいっと耐えていればいい事なのだが、こうして活字にしてしまったほうが、ぼくとしては解毒作用になって、一日も早く回復するのである。だから編集部や販売部の人達は、こんなぼくの文章に影響を受けず、自らの判断や評価にたよってもらいたい。「作者はあんなことをいっているが、売上が、こんなに伸びているということは、きっと表紙が成功している証拠だ」とでも考えていただき、売上の悪い週は、内容のせいにしていただきたい。
従来の週刊誌の表紙を見れば、いいとか悪いとかいう判断を越えたところで存在しているので、たとえぼくが失敗作を発表したとしても、「今週の内容はいいが、表紙が悪いから買うのはよそう」という人は、恐らくあまりいないと思う。まあこんなことから離れて、ぼくが一番嬉しく思うのは、週刊読売が、ぼくに表紙の仕事を依頼してくれたことだ。しかも、「好きなように自由にやってください」とまでいわれているのである。そこでぼくは、本当になんとかしなければならないのだ。今ぼくは、ぼく自身に大きな期待をかけている。何かが、ぼく自身の中で胎動をし始めたのだ。