捨心無量
最近、ものを創るということはつくづく大変なことであると同時に苦痛な作業だなア、と考込むようになった。
今さら創作が大変で苦痛なことは当り前なことだが、ぼくがいわんとすることはちょっと違う。つまり創作の純粋行為における苦悩ではなく、創作の動機についてである。
この間友人の詩人である高橋睦郎君と道を歩きながら、ぼくは日頃気になっている創作の動機について怖る怖る聞いてみた。
「君の場合、物を創る動機に他人を意識する競争心などあるかい? 例えば、ライバルへのジェラシーや、または憎悪、それから権威主義への指向など……」
すると、高橋君はためらいもなく即座に、
「全くそれだけのためにやっているようなものだよ! イヤンなっちゃうよ」
という返事が返ってきた。
ぼくは一瞬はっとした解放感に襲われた。高橋君とぼくはジャンルが異なるせいか、それとも親しい間柄のせいか、ぼくには安心して彼の本心をうちあけてくれた。このようなことは創作者同士では絶対に口にしないで、お互の腹をさぐり合い、かえって競争心を露骨に出してしまうものだ。
そこで高橋君にぼくはもうひとつ尋ねてみた。
「競争心や権威指向がエネルギーになったからいい作品ができるかどうかということは少し疑問に思うのだが、もしそのようなものがなくっても、創作の純粋行為だけでやった方が、よけいな苦しみもなくかえって純度の高いものができるのではないか……」
高橋君は、その通りだと思う、と答えた。するとわれわれは全く無用な想念のために苦痛を味わっているのであって、己自身の中にライバルがいることを忘れていることに気づく。こんな粗雑なエゴイズムから生れてくる作品はたとえ評価されたとしても、それは人間本来の生き方を逸脱したところの産物のため、おそらく低いバイブレーションを持った、自然の法則を無視した作品に違いないのではなかろうか。
子供の頃、好きで描いていた絵がいつの間にかお金になるようになったが、この瞬間からぼくは我欲のために創作を始めだしたような気がする。ストレスが蓄積されて病気になることがあるが、これ全て我欲が原因しているようだ。仏教に捨無量心という言葉があるが、世の中の悩みや苦しみはみなこの捨てる心がないところから起ると説かれている。人間いずれ近い将来死ぬんだと思えば捨てることなどなんでもないことだが、誰しも自分の死の現実感がないため今日も我欲に生き、自らの苦悩を他人や社会のせいにしているようだ。
ぼくが今最も強い関心を抱いていることは、自分自身を徹底的に変えてしまいたいということだ。つまり運命の軌道を変えてしまいたいのである。