秘めたる楽園=ポール・デルボー
ポール・デルボーの絵の前に立ってジーッと画面を見ていると、いつの間にかこれらの絵がまるで自分の描いた絵のような気になってきた。というのは、これらの絵の世界はかつてぼくが遠い昔、あるいはたった今、いやもしかすると近い未来に経験するかも知れない予感として、すでにぼく自身のものになってしまっているからだ。だからこれらの作品の中にはポール・デルボーが存在しているのではなく、ぼく自身が存在しており、この世界はすでにぼくの所有物になってしまっている。潜在意識の世界でデルボーとぼくは共通しており、それは全ての鑑賞者とも共通しているはずである。
デルボーの絵は、ぼく自身の魂の記憶であり、何回ともなく繰返してきた肉体の生死の中で、常に永遠の存在であったような気がする。アダムとイブの時代から、古代文明の時代を経て、現代そして来世へと無限に繰返す輪廻《りんね》転生の記憶でもある。
時間の凍結を感じさせるデルボーの絵は、また無限の時間の流れをも表現しており、われわれが知覚できる物理的時間の流れではないもうひとつの時間の中にあるのだ。こうした心理的な夢の世界を形成する内的時間は無限であり、われわれはこの時間の中でこそ真の自由を得ることが可能である。日頃この時間帯は意識されないが、物理的時間と隣合せに存在するこの時間こそ、われわれが支配されている時間ではないだろうか。もしわれわれが、この時間を逆に自由自在に制御することができれば、どんなに素晴しいことだろう。過去に帰ることもできるだろうし、未来に旅することもでき、あるいは他人の心さえ読むこともいとも簡単にできるかも知れない。
ぼくは数年前から夢日記をつけている。このことはぼくにとって秘めたる楽園への旅なのである。肉体から解放され、自由自在に飛翔《ひしよう》できる、この王国はぼくだけが知る惑星であり、魂のトリップは、ぼくに昼と夜の二つの人生を与えてくれる。
デルボーの世界もぼくにとってはぼく自身の夢の王国であり、いとも簡単に画面の中に飛込んで行き、そして画面のすみずみまで歩回り、子供のように無邪気に遊回ることができる。昼と夜、光と影が同居したこの不思議なライティングの楽園には、生と死、此岸と彼岸のバルド(生死の中間)地帯が存在し、これはまさにぼく自身の夢の世界でもある。
幼児期におけるセクシュアルな体験は、デルボーの裸像の数々の下腹部のヘアで時空を超えて今現実化される。この豊饒《ほうじよう》な茂みは、単に性的なものを超えて、ぼくに永遠の安らぎさえ与えてくれる。女性のヘアがこんなに精神的な安らぎを演じてくれるとは、デルボーの数々のヘアに囲まれて初めて経験した実感である。こんな風に考えるとデルボーの女性のヘアは、デルボーの絵の世界と、いやぼく自身の夢の世界とは決して無縁ではないようだ。
また建築的パースペクティブな空間に配置された裸像群は、まるで蝋《ろう》人形館の舞台を彷彿《ほうふつ》させるように演劇的であり、何か胸をわくわくさせるような興奮と感動を呼起してくれる。遠くのものから手前のものまですべての事物にピントを合せて細密描写されているため、画面に描かれているすべてのものが主役を演じる。だからぼくは女性のヘアとも語ることができるし、細長い影を投げている路上の小石とも、遠くの丘の上にある神殿の柱の模様とも、あるいは水平線の彼方とも語ることができる。このことは空間においても、物理的なものではなくあくまで心理的なものになっている。
デルボーの時間と空間は地球の時間と空間ではなく宇宙間における時間と空間の内に存在しているため、われわれの知らざる未知の潜在意識の流れと調和するのだろう。こうした心理的な宇宙の流れ、波動にチャンネルを合せた時、われわれはデルボーの世界と一体になり、そしてデルボーの絵をわがものにすることが可能なのだ。