負のエロス・死への憧憬
どういうわけかぼくはよく竹久夢二のことについて文章を頼まれる。以前、あまりにもよく頼まれるので、「ぼくはもうこれ以上絶対夢二のことは書きたくない」と宣言? したくらいだ。ところが、またこうして頼まれてみると、やはりぼくと夢二は何か不思議な縁で結ばれているのではないかと思い、またまた引受けてしまった。
何度書いても、ぼくは夢二をこれでもか、これでもかと拒絶してしまう。上手だと思うが、とても好きになれない。夢二の絵が嫌いなのではなく、夢二自身が好きになれないのかも知れない。つまり、あんな[#「あんな」に傍点]女を描く作者が嫌いなのだ。言葉をかえれば夢二の女性観が好きになれないのである。
しかし、ぼくが初めて夢二の絵を見た時、ぼくの体中に一瞬電気が走ったほど、痺れた記憶がある。もういつのことか忘れてしまったが、恐らく、童貞の頃の話だったろう。
夢二展の会場に展示されていた、夢二自身が撮った、女のポーズが彼の絵の女のポーズそっくりに演出した写真を見てぼくはいよいよ夢二という人が嫌いになってしまった。そして聞くところによると夢二の女になった人はみんな指をつめていたそうであるが、もうこのような話にいたっては、夢二という文字を見ただけで嘔吐する。本人がつけたのか、親がつけたのか知らないが「夢二」という名前さえ嫌いだ。
何ひとつとっても女々しく、女の同性愛的な感じがする。頽廃もここまでくれば本物かも知れないが、ぼくには関係ない。
しかし、告白すると、もし夢二のような女が現実に現れたら、恐らくこの女の魔性に取付かれ、死を共にしなければならなくなるかも知れない。
夢二の死は、夢二自らの絵の女に導かれたものと思う。だから夢二の女は幽霊のように生気がなく、まるで死後の世界からやってきたようで怖がりのぼくなぞ背筋が冷たくなる。だから死を恐怖するぼくは、必死になって夢二を拒否しているのかも知れない。
夢二がグラフィック・デザイナーとイラストレーターの走りであるということの関心事より以前に、ぼくは夢二の霊的なものを拒否してしまうので、どうも客観的に夢二を評価することができない。
うっかりすると毎日が死の不安で過ぎているというのに、これ以上夢二に関わると死を呼ぶだけである。夢二の好きな人は、よほど死にたい人か、楽観的な強靭な精神の持主に違いないと思う。
夢二は彼の時代のスーパースターだったらしいが、夢二のどこに、そんな社会性があったのだろう。むしろ夢二の絵は非常に個人的な情緒の世界のものだけに、没社会性のはずである。このような個人的な世界の表現に人気があったこの時代は一体どのような時代だったのだろう。そしてまた今回の夢二展が連日満員であったことと、てらしあわせて考えてみると、ぼくは何だかあまりいい予感がしないのである。
夢二のロマネスクは最終的に死への憧憬である。現代のような終末的ムードの中にあって、まるで同病相哀れむという感がしないでもない夢二展の評判が気になるのだ。
夢二の女には確かにある種のエロティシズムを感じる。しかしそれは死にささえられたエロティシズムで、あまりにも文学的過ぎる。
死とエロティシズムはしばしば文学のテーマになって非常に高級なものらしい。ところが現代のように死の不安にささえられた時代に、死がどうしてエロティシズムなのかぼくにはわからない。まあ、ぼくも以前は死をエロス的なアングルから見つめていた時があったが、あの頃は世の中もぼくの肉体も精神も、健康だった。だから呑気に死をエロス的に見ることができたのかも知れない。
ぼくにとってエロスは死よりむしろ生でなければならないような気がする。だからフィージー諸島の土人のあのギラギラした太陽の下のエネルギッシュな踊りに、ぼくは自然とエロティックなものを感じるのだ。
ぼくは夢二を必死に拒否するのも、ぼく自身の生きる証にしたいからである。うっかりすると夢二は死神となって憑依《ひようい》しかねない。このぐらい拒否すれば向うも寄りつかないだろう。
夢二は一歩一歩と自分の絵の女に導かれながら死に近づいていった。ものを創る人間は、自作に導かれるところがあるような気がする。創作の思念は必ず近い将来、形となって現実化するものである。この宇宙の法則は正しい。