ピープル=和田誠君と似顔絵
一九五七年和田誠が「日宣美」展で日宣美賞をとった。ぼくがまだ神戸新聞社にデザイナーの卵として勤めていたときである。この和田君の受賞作は、映画ポスター「夜のマグリット」と題したイヴ・モンタンの似顔絵を稲垣行一郎がレイアウトしたものだった。新鮮なレイアウトにも驚いたが、まずなによりこの作品が映画のポスターであったということに、ぼくは非常なショックを受けた。今までの「日宣美」展といえば、商品や観光や、催物や公共をテーマにしたポスターがほとんどで、映画ポスターなど出品する応募者などは皆無といっていいほどだった。
ところが、新劇や音楽やバレエなどのポスターは毎年ずいぶん多く、ぼくはデザイナーのこういったものに対する関心の高尚さに、ちょっとばかりコンプレックスを持っていたことは後年ぼくが「日宣美」展にバレエのバの字も知らないのに、バレエのポスターを出品したことでもわかってもらえると思う。まあ今になって思えば、デザイナーの芸術コンプレックスがこんなテーマを選択させていたのだろう。
和田君は「夜のマグリット」において初めて今までどちらかといえば役者の似顔絵などタブー視されていたモダニズム・デザインの中に堂々とそれを導入し、また認められたということに、ぼくは大きなショックを受けた、と同時にいよいよデザインが、このあたりから新しい領域に向って開けていくなア、という予感に興奮したことを今でもはっきり記憶している。こうして和田君は今日、ついに自らの手で、グラフィック・デザインの世界に庶民性とアイロニイとエンターテイメントというデザインにとって重要な要素をうえつけた。従来の似顔絵は、単に似ているというだけにとどまっており、それらが決して造形的表現たり得なかったが、和田君にして初めてそれは、単なる似顔絵から解放たれ、グラフィカルな意味での真のイラストレーションとなり得たと思う。また和田君は自らの趣味という、非常に個人的で没社会的な領域を縦に掘下げながら、いつのまにか横の社会と大きなパイプで結合させてしまった。このことはデザイナーの偽善的社会意識を見事に皮肉っており、耳の痛い話である。
和田君の似顔絵には言葉は必要ない。見ればわかる。もしわからない人がいるとすれば、その人は似顔絵の人物を知らないだけのことだ。もし和田君の似顔絵について言葉を必要としたがる人々がいるとすれば、その人は生きていない証拠だろう。
だからこんなふうに考えるぼくがここで文章を書くということは、ちょっとおかしいことかも知れない。
和田君の似顔絵が、いったい誰をモデルにして描いたかわからないような難解なものなら、もしかすればある種の言葉も必要かも知れないが、決して和田君の似顔絵は、コンセプショナル・アートのような難解な芸術でもない。この種の難解な芸術になれば鑑賞者の一人一人によってその見方に差異はあろうが、和田君の似顔絵に関しては、そんなに多くの異なった主観的な見方はできないはずで、誰が見てもマリリン・モンローはマリリン・モンローにしか見えない。しかもそのマリリン・モンローは、和田君の個人的マリリン・モンローではなく、彼からさえも解放された、まったく客観的な、ちょっとオーバーな表現をすれば、宇宙の一なる真理のマリリン・モンローなのである。
だからこのような表現ができる和田君は、常に醒めた人だと思う。一見、和田君が非常に淡白な感じがするのもきっと彼自身、そんなに物事に熱中したりおぼれたりしないタイプだからなのかも知れない。まあ本人は時たまおぼれたふりをしたり、また自分でもこのことに気がつかないかも知れないが、和田君の本質は、いつも冷静で醒めているのではないだろうか。そのことは和田君の似顔絵に最もよく表現されており、常に物事の全体を鳥瞰できる人である。
だから似顔絵のモデルのある一面性ではなく全体が描かれるのだ。どんな人間にも善悪の両面があり、われわれはこのどちらか一方をクローズ・アップすることにより、その人格を決定づけてしまう悪い習癖があるが、和田君にはその両面を認知する才能があり、だから絶対に片寄った主観的な物の見方はしない。
こんなふうに和田君のことを書くと、和田君はまるで主体性のない人間に見えるかも知れないが、ぼくは主観的な物の見方に、どうやら最近疑問を持つようになってきた。今日使われている主観的という言葉は非常に美しい今日的な響を持っているかも知れないが、この言葉の裏側にあるのは非常に排他的で、その母体になっているものはエゴイズムのような気がする。
ところが今日使われている客観的という言葉は、何か非常にレベルの低い、個性のない画一的な考えと解釈されており、また実際にそうである。だから、ここでいう客観性というものには誰も感動しない。ところが和田君の似顔絵は客観的な描写にもかかわらず、どうしてこんなに実物以上に似ていて、おかしいのだろう。
ここで描かれている和田君の客観性というのは、われわれ鑑賞者全員に共通する意識の流れに訴えてくるから、われわれは何の説明も理屈もなく思わず理解してしまうのである。
この客観性というのは人類、あるいは万物に共通する波長のようなもので、われわれはこうしてすべてのものと潜在意識の中でお互に通じ合っている共通の意識なのである。だから恐らく、和田君の似顔絵を見て面白がる人間は、この瞬間、お互に共通の意識で通じ合っているはずだ。
だからここには暴力的なものは何ひとつなく、むしろお互が平和な意識で結ばれる。和田君の似顔絵を見て、面白がるが決してモデルに腹を立てたり、ざまあみろ、とあざ笑ったりする人は一人もいないと思う。たとえニクソンの似顔絵を見ても、誰一人ニクソンをにくい奴だと思う人はいないはずだ。こうした和田君の似顔絵の根底には、彼の人間に対する優しい気持が横たわっているからだろう。
ぼくの和田君との十数年間の付合いの中で感じたことは、彼の名前が語るように誠に誠実であるということ。だからぼくは他の人々の前では平気でつける嘘が、和田君の前では何もかも見すかされているようで、嘘がつけなくなってしまい、いつも懺悔したくなってしまうくらいである。
悪の魅力というのは現代的で、目立つものだが、和田君は、どうやらその反対だから、非常に地味で、目立ちにくく、つい非魅力的な感じがする。善の要素を持つものはいつの時代にもこうしたものだろう。目立つ人間というのは世俗的な欲望が強すぎるのである。
そしてこんな世俗的な人間が常に和田君の似顔絵の対象になっていることを考えると、何か、この辺に和田君の重要な謎が隠されているような気がして、ますます興味深い。
スターだから描かれるということもあるが、描かれたためにそのスターの座を以前にもまして固めることもできるのだ。だから多くのスターたちは似顔絵の対象になることを心待ちしているはずである。だから、たとえ侮辱されたような似顔絵であっても内心喜んでいるはずだ。
肖像画と違って似顔絵は、うっかりするとモデルのすべてが裸にされてしまう。つまり本人が人知れず日夜悩み続けている欠点が最も重要な絵の鍵になり、そこをはずしてはいっさい似て非なるものになってしまう。だから、こういうふうに考えてみると、相手のあらさがしが似顔絵を上手に描くコツということになりそうだ。そうなると和田君も意地悪いところがあるのかも知れない。
でも和田君がモデルを愛している部分はきっと彼等が自分自身で欠点だと思っている、そんな部分なのかも知れない。個性というものは恐らく、こうした他人にはない己だけにあると信じている欠点のことをいうのではなかろうか。
またこうした欠点が資本主義社会においてはスター、あるいは商品の最も重要な価値になるのだろう。もし和田君に描かれて喜ばない人間がいるとすれば、それは和田君の責任ではなく、本人の責任であり、本人が己の魂について反省しなければならない。
ぼくはここまで、和田君の似顔絵についてすこしのべてきたが、ぼくが和田君でない限り、彼の中に入込むことも到底できず、あくまでぼくの個人的な考えに終始するだけで、なかなか彼の創造の秘密の領域まで立入ることは不可能である。
そこで少しでも彼の内部を覗くことができるのではないだろうかと思い、彼に子供の頃から今日に至るまでの彼に影響を与えた様々な事柄について尋ねてみることにした。
その結果は圧倒的に人物が多く、それも、哲学者や思想家や文学者というたぐいの人物はほとんどなく、映画や音楽のスターがその大部分を占めており、またこうした人物はすでに彼の似顔絵の中に登場している。とにかく非常に興味あるデータである。