晴れた日=篠山紀信の写真
ぼくはいつでもそうだが、篠山君の写真を見ていると彼がうらやましくなってくる。色んな異なった土地や、われわれが滅多に逢うことができない人々に逢えてさぞ楽しいだろうなア、と想像してしまうからだ。
ぼくのような職業の人間は、出張? の仕事が滅多にないので、いつも時間を強引につくって気ままな旅行をすることにしている。ぼくは旅行そのものは面倒くさいし、ちっとも好きじゃないが、家を離れたり東京を離れたりすることにとても快感があるのだ。家とか東京とかいうのはぼくにとって肉体みたいなものだから、旅行はまるで魂のトリップのようなものである。
旅行ができない時は、ぼくはいつも音楽を聴いたり、読書したり、画集や写真集を見るが、これも肉体からの解放の願望なのかも知れない。肉体というものがあるためにわれわれは多くの欲望を持つ。この欲望はまた死の恐怖ともつながり、本当に毎日しんどい人生を送っていることになる。
さて、篠山君の写真集「晴れた日」の数々の写真を見ていると、またしてもこれらの場所に行きたくなってきた。一枚の写真から夢想する時、ぼくは少なくとも自分の肉体や現実から離脱して、魂のトリップが始まっているのに気づく。ここに写っている数々の事物は日常化された別に珍しくもない情報に過ぎないが、こんな現実感から離れてぼくはこれらの一枚一枚に、抽象化された想念の記憶の数々を想起し、遠い日の出来事や、あるいは近い未来を予感してしまう。ぼくの中ではいつも過去、現在、未来が同居した時間の中で常に不幸な体験を生んでしまうくせがある。
この「晴れた日」はちょうどぼくのこうした感覚を絵に描いたようにはっきりと語りかけてくる。こんな時、ぼくの中で、この写真の作者が篠山紀信という写真家ではなく、ぼく自身の写真になり変わってしまうのだ。篠山君がいくら、これは俺の写真だ! といっても、それはダメだろう。写真を所有するということはもしかしたらこのようなことなのかも知れない。
これらの写真はある日の数々の現実だったに違いない。しかしそのようなことにはぼくは全く無関心で、ぼくの関心事といえば、今この写真が一枚一枚ぼくの中で新たな現実を創造していくこの瞬間だけにしかないような気がする。
篠山君はこの写真集を百科事典だといってみたり、バイブルだといってみたりしているが、彼独得の感覚的な発想で大した意味を持っているわけではないことはすぐ理解できるが、まるっきり的がはずれているとは思えない。彼と写真を通じた仕事をよくやるが、彼はいつでも、ファインダーを覗きながら、こりゃルルーシュだ、ダリだ、セシル・B・デミルだ、黒沢明だ、ワーホールだ、アドベンだ、ダビンチだ、五木寛之だと、あらゆる美学と重ね合せながら、しかも自分自身を鼓舞しながら撮っている。一種の自己暗示であるが、何日間も一緒にいて横で聞いていると世界中の人名録を読上げているようだ。だからこの「晴れた日」を彼が百科事典だという意味も何となくわかるような気がする。
篠山君は非常に自我の強い人間ではあるが、一方人間に対する愛情と優しさも人一倍強く、親切なところがある。そんな彼の性格はこれらの写真一枚一枚の中に克明に記録されている。篠山君にとっては写真の題材は何でもいいのだ。レンズを通して見る外的現実は、シャッターを押した瞬間全て抽象化された内的現実にすり変えられ、われわれを未知の王国への旅人にしてくれる。