霊界通信=伊坂芳太郎さんの死
伊坂さんの作品を語ろうとする時、どうしても伊坂さんの死を無関係にするわけにはいかないような気がするのだが、このことは果して正しいのかどうか、ぼくは今迷っている。伊坂さんが亡くなったからといって伊坂さんの作品が急に肉体の消滅と同様、消滅するわけでもなく衰えるわけでもないのに、ぼくはどうしても伊坂さんの死にひっかかって、本当にどのように伊坂さんの作品を語ればいいのか、困惑してしまっている。
伊坂さんの生存中のエネルギッシュな仕事は、はたから見ていて、すごい生命力を感じていたし、必死に生きるための証言でもあったのだが、伊坂さんが死んじゃった途端に、あの厖大な量の仕事は死ぬための証言だったのかなあ、ととても悲愴な感じになってしまい、やはりぼくもあのようにエネルギッシュに創作をしなければ本物ではないなあ、と考えさせられてしまうが、しかしぼくには死を賭けるほどの生命力もないし、死にたくないというずるい気持などが働いて、やっぱり、伊坂さんの一歩手前で止めて引返してしまう自分を少し情ないなあとさえ思うが、仕方がない。
伊坂さんの絵はとても緻密な線描画で、誰もが真似できるものではない。そりゃぼくだってあのような緻密な絵を描こうと思えば描く技術はあるかも知れないが、ないのはそれを実行する情熱のようなものだ。技術なんていうものは誰でもある線まではいくかも知れないが、それをそこまで持ってくる情熱と努力ということになると、何千人に一人か、何万人に一人ということになり、人間以上の力を必要とするが、伊坂さんはこのことをやった数少い人だとぼくは、いまつくづく尊敬している。
ぼくが伊坂さんの絵に感心するのは、もちろんあの顕微鏡的緻密な描法や、シュールレアリスティックなイメージや装飾的な才能にではあるが、それよりもっと驚くのはこうしたすごい労力を必要としたあの超人的な忍耐力に、もうぼくは感動と尊敬でいっぱいである。
特に伊坂さんの晩年の作品は狂気じみているほど緻密で、ちょっと怖くなってしまうほどだ。今伊坂さんが亡くなってしまったのでいうわけではないが、髪の一本一本や洋服の柄や皺を必要以上にこまかく描きこんだ絵を見ていると、やっぱり何かにとりつかれていたのかも知れない。誰か過去の偉大な絵描きの霊が伊坂さんの手を借りて描かせていたのかも知れない、とこんな想像までしてしまうほど、何かゾッとするものを感じ、ある意味ではうらやましいとも思うのである。
伊坂さんはある日忽然と他界してしまった。ぼくが交通事故の後、足が悪くなり病院に入院している時の出来事で、このニュースを知った時、ぼくは、「大変なことになった」と思った。それはどういう意味か自分でもよくわからなかったが、とてもぼく自身に関係のあるようなショックだった。ぼくと伊坂さんとは、特に親しい友人でもなかったが、逢うととてもいい感じのする仲間の一人で、そしてぼくにとって刺激的な存在だった。
今ぼくの手もとに沢山の伊坂さんの作品のカラーフィルムやファイルがあるが、何だか遺品に触れているような気がしたり、また霊界から描送ってきた作品に見えたりして、ちょっと夜なんか独りで眺めているとすごみがある。というのも、こうした作品の中には伊坂さんの生存中の想念がべったりと塗りこめられていると考えるからである。伊坂さんがどのようなことを考え、どのような生活をしていたか、ぼくはほとんど知らないだけに、ますます彼の作品が神秘的に見えてくる。
伊坂さんが今も生続けていて、そして制作をしていたなら、伊坂さんの過去の作品も少しずつ意味も変っていくはずだが、こんなに若く早く亡くなったため、流動していた作品群は伊坂さんの死の瞬間、まるで映画のストップモーションのように、ピタッと歴史の中に静止し、そして凍結してしまった。
伊坂さんは自分の死を予感していたのだろうか? あるいは死の瞬間伊坂さんは死を意識したのだろうか? それとも伊坂さんは自分の死を知らないまま死んでいったのだろうか? また、未だに死の意識がなく、どこか宙空で絵を描続けているのだろうか? いや、それともとっくの昔に伊坂さんはこの地球のどこかで再生し、絵の上手い少年か少女になって今頃大人を驚かせているのかも知れない。どちらにしても伊坂さんの魂はわれわれのごく身近にいるにちがいない。ぼくは輪廻転生を堅く信じているので、いずれ近い将来再び伊坂さんと逢うことができると確信し、そしてまた一緒にイラストレーターズ・クラブか何かを結成し、今度こそはもっともっと親しい友人になりたいと願っている。