瓢湖の白鳥=羽賀康夫氏の世界
ぼくは毎晩のように夢を見る。そしてその大部分は記憶している。情景をはっきり記憶している時もあれば、夢の中の感情だけが抽象化されて記憶していることもある。
羽賀康夫氏の白鳥の写真を見ていると、ぼくはまるで昨夜見た夢の残像を見ているように、いくつもの映像が重り合って、再び夢の世界につれもどされそうになる。
いくら夢を正確に記憶しているといっても、どこか重要な部分がポカッと空白になっている。それがまるでここに描かれた白いシルエット化された実体感のない白鳥のように潜在意識と顕在意識の中間地帯で浮遊している。
夢は昼と夜の世界が交錯し、光と闇によって映像化されているが、作者の写真はまさにその事を物語っている。この昼と夜の同時性が、これらの写真に魅せられるぼくの一番大きな理由である。
真っ白くぬけたシルエットの白鳥は、夢の中の自分のように、肉体感を持たない魂のようでもある。しかしこれこそ肉体を解脱した霊なる実体そのものかも知れない。この非現実的な夢のような世界は死の世界にも通じ、ちょっとした霊界風景を垣間見ているような気にもなってくるから不思議だ。
ぼく自身現実的な風景に多分に食傷しているせいか、このような非現実的な風景を愛好する。われわれは宇宙の根源と無関係に生かされているのではない。われわれの五感が及ばない遠く不可視の世界からの指令によって生かされているはずだ。
羽賀氏の白鳥の風景はわれわれの母なる国の風景であり、永遠に探し求めている黄泉《よみ》の国の風景でもある。羽賀氏はこのようなファンタスティックな世界を人工的な方法で展開してくれた。複数の写真の合成、色彩の変化、あるいはシンメトリックなレイアウトで写真を時には絵画的、デザイン的な領域にまで幅をのばし、あらゆるリアリティを剥奪させようと試みた。そしてそれは半ば成功している。このような技術的な方法は決して目新しいものではないが、この技術を新たな感性の領域にまで発展させ、われわれをさらに不思議な幻想の世界に導いてくれる。白鳥の輪舞と煌く色彩はまるで交響曲を聴いているような音楽的世界であり、さらに一方ではドラッグ的狂気の世界への通路にもなっている。
ところでこれらの写真を単なる写真と名づけていいものかどうか、ぼくは迷ってしまう。むしろデザインと呼んだ方がふさわしいかも知れない。今日の写真は大部分暗室の操作で最終的に創上げるところがある。現実を、現実のままとらえた写真より、むしろなんらかの方法で人工的な操作を加えた方が、さらに現実感を持ってくる。現実における現実感の表現は創作者の無意識の領域と結びつきながら初めて生き生きとした説得力を持つようだ。現実の深層意識はこのような人工的な方法により一層明るみに照し出される。
写真をいかに写真的でなくするかという作業がぼくにはとても興味があり、ぼくの職業であるデザインの領域へ越境されるそのさまが、ぼく自身、デザインの中ですでに見失ったものを新たに発見させてくれる。掲載される写真はマスコミジャーナリズムの中で苛烈な戦いを、日夜続けているスターカメラマンに見られるアクチュアルなものは感じられないが、それだけに、何かしらゆったりとした、素朴な暖みを感じる。それは羽賀氏のテーマにも明確に表れ、執拗に白鳥を追続けた姿勢がこのことを如実に物語っている。厳冬の大自然との葛藤は、自らが大自然の一部と化すことによって初めて可能である。これはひとつの厳しい修行であり、より聖なる高みに至るプロセスでもある。作者はこの厳しいプロセスで多くの幻想を見た。昼と夜が、光と闇が交錯しながら、次々と現れる瓢湖の白鳥の幻想を夢の中の情景さながら……、そしてこれらの幻想は七色の虹のプリズムを通して感動的に印画紙に焼きつけられていった。
同じ場所で白鳥の動きの変化をとらえた二種の写真をシンメトリックに並べたレイアウトは、まるで宇宙が無限であることを証明するかのように永遠にどこまでも連続して、素晴しい白鳥王国を築いている。このようなシンメトリカルな構図は、おのずからユートピアを志向しており、再びぼくが作者に新たな関心を抱くもうひとつの理由がここにある。