人生、輪廻、わがふるさと
ぼくのふるさとは兵庫県の中央部にある播州織物の産地で有名な西脇市である。ぼくはここで生れ、高校を卒業した翌年まで、西脇で過した。しかし実際は父が死に、家をたたんで母を東京に呼寄せるまでの五、六年の間は勤務地の神戸から度々帰省していたので、西脇との関係は二十四歳の頃まで続いていたことになる。
父が死んで五年後母も東京で他界した。両親の存在そのものがぼくにとって西脇そのものだっただけに、この瞬間からぼくの内なる西脇も同時に消滅してしまうような気がした。西脇で生れ西脇で育ったぼくにとって西脇は楽しい想い出や懐しい記憶で満ちあふれていた。しかし両親の死がこの二十数年の感慨を一瞬に悲しい色彩で塗りこめてしまった。
父の死と同時に他人の手に渡った家は、現在は前栽《せんざい》の植木二本だけを残して両親とぼくの記憶は全てこの世界から姿を消してしまった。西脇はぼくにとって両親そのものであっただけに、両親の死は西脇の死でもあった。両親の死後も西脇は依然としてこの地球上に存在していたが、ぼくにとっては、それは両親の脱殻《ぬけがら》を象徴するだけのものだった。
ぼくにとっての最終的な安住の場は両親=西脇だった。両親の死はぼくから西脇をも奪いとってしまった。だからぼくにとって両親不在の西脇は存在しなかったのである。西脇を後にしてぼくは約十年間西脇に帰ろうとしなかった。過去の楽しさや懐しい想い出は、今や両親や家の不在によって、もしぼくが西脇へ帰ろうものなら、全身を絞めつけられるような悲しさと淋しさに耐えられないような気がしたからである。
しかし日が経つにつれぼくの中の西脇は次第に大きく増幅されて、今にも破裂しそうになっていた。そして帰郷したのが西脇を出てから十年後のある初夏の空が美しく晴れあがったすがすがしい日だった。いい知れぬ懐しさと恐しさ、そして何ともいえぬ悲しみさえともなって興奮という爆弾を抱きかかえながらぼくは西脇に帰った。
初めて見た変り果てた生家の跡にぼくは爆発せんばかりの怒りと悲しみを感じた。それはぼく自身への運命に対する怒りと悲しみのような気がした。西脇の風景はどことなく面影を残しながら、しかし大きく変っていた。変り果てた風景を前にしてぼくの記憶が少しずつ遠くに消し去られていくような気がした。また西脇はぼくの記憶にあるより、はるかに小さく感じられた。まるで十年の間に年老いて縮んでしまったのではないかとさえ思われた。しかしこの縮小された西脇の方がやはりぼくにとってはタイムトンネルの中にいるようで何ともいえぬ懐しさに思わず地面に手を触れたくなった。土の感触はぼくの全身をあっという間に少年時代の時間の流れの中に投入れてしまった。
久振りに逢う級友や恩師、そして町の人々は年をとって変っていた。この当然のことがぼくにとってはとても不思議でならなかった。しかし変らなかったのは彼等のぼくに対する心情だった。こうした人々の情に触れた瞬間ぼくの内部の西脇が急に甦ってきた。そしてやっぱり帰ってきてよかったと思った。
ぼくが夜見る夢の九十パーセントはほとんど西脇が舞台になっている。昨夜見た夢も西脇が舞台だった。そしておそらく今夜も西脇の夢を見ることになるだろう。西脇を後にしてからぼくは毎晩のようにこうして夢の中で西脇に住んでいる。
その後ぼくは度々西脇へ帰っている。生家がなくなった後のぼくの唯一の安堵の地は両親の墓である。ここに来るとぼくはいつでも両親に逢えるような気がする。そしていずれぼくもこの両親の傍で眠ることになるのだ。ぼくは西脇から出発して西脇に到達する。
このあいだ西脇でぼくの作品展が開催された時、妻が生れて初めて人前で挨拶した。
「横尾はいきづまるといつも西脇に帰りたくなります。どうぞよろしくお願いします」と、ただこれだけの短い挨拶だったが、ぼくは正に妻のいう通りだと思った。