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なぜぼくはここにいるのか24
日期:2018-10-26 22:36  点击:328
   父はいずこに
 
 ぼくの父は、ぼくが上京した二十四歳の時、六十九歳で死んだ。父と一緒に暮した年月は十七、八年間ぐらいだった。
 高校を卒業した翌年から、ぼくは神戸に下宿することになり、その後上京するまでの五、六年というものは、両親と別居していたので、その間顔を合せたのは盆と正月の数日間ぐらいだった。
 幼児の頃の父の印象はあまり明確に憶えていないが、父はいつも自転車に乗ってでかけていたことや、時には父の自転車の荷台に積んだ行李《こうり》の中に入れられて、商売(呉服商)の得意先に一緒に連れられた記憶などがある。
 また、町に一、二軒あったカフェーのネオンの点滅するのを見るのが好きだったぼくは、「赤い灯、青い灯」と、よく父にせがんで見に連れられたことなども憶えている。
 また、魚釣の好きな父は、よくぼくを連れて川にも行ってくれた。これはぼくが小学生になってからのことだが、ぼくのこの頃の生活はほとんど毎日、魚取に明暮れていた。父もぼくも決して魚取がうまい方ではなかったのだが、とにかく二人とも好きでたまらなかった。
 魚取のほかにも、家の前にわずかばかりの畑があったので、父と一緒に汗を流した記憶なども、ついこの間のような気がしてならない。
 また、この頃の記憶でいつもすがすがしい思いがするのは、盆に両親と一緒に墓の掃除をしに行くことだった。この日は不思議に子供心ながら精神的になったものだ。
 両親は、生きている頃から自分達の名前の入った墓石を建てていた。このことは、父が死んだ後、ぼくにわずらわしい心配をさせないための親心からだった。
 しかしぼくにとっては、こんな両親の墓を見るのがちょっぴり悲しい気がした。親の死など想像もしたくないのに、こうして現実に墓があるということで、いつも両親の死をリアルに考えなければならなかったからである。
 父の死を知ったのは、上京して三ヵ月あまり経った時だった。父はぼくの上京と同時に非常に悲しみ、こんなことから心身ともに衰弱していたようだった。意外に早く訪れた父の死に、ぼくは大きなショックを受けた。
 父は尋常小学校しかでていなかったので無学に近かったが、ぼくが養子で一人っ子だったということもあって、溺愛してくれた。ぼくの上京には内心反対だったが、ぼくにはすべての自由を与えてくれた。こんな父の気持が痛いほど伝わっていたので、ぼくは父のもとを離れることを大変な親不孝だと思っていた。
 父はぼくの将来にある種の期待と同時に不安も抱いていた。昔育ちの父にとっては、グラフィック・デザイナーといっても看板屋だと思い、このような職業を選ぶより、むしろ商売人にしたかったようだ。そのためにぼくを珠算塾などにも通わせた。
 だからぼくが上京する時にも、父には何の期待の材料も提供していなかっただけに、おそらく死の瞬間までぼくの将来を案じつつ、息をひきとったような気がする。
 父の死後、ぼくはよく父の夢を見た。行者の姿になって遍路の途中わが家に帰ってきた夢とか、すでに死者の姿でぼくの前に現れたりもした。ぼくが毎晩のように父の夢を見るので、このことを母に話すと、母のところには一度も現れないといって、母がぶつぶついったりもした。
 父の死は、ぼくにとっては初めての肉親の死であり、死というものが非常に身近な存在となってぼくを襲いはじめた。だからぼくは、この日から今日まで、その後の母の死も含めて、ぼくから死の意識がどうしても離れなくなってしまった。
 それにしても両親はいったいどこへ行ってしまったのだろう。死後、まだどこか暗い所を彷徨《さまよ》っているのだろうか。それとも転生して、この世のどこかに再び現れており、そして以前の親子とは別の関係として、すでにわれわれは再会しているのだろうか。親と子は、いったいどこからきて、そしてどこへ行くのだろう?

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