ジンタとともにぼくのサーカスは
木下大サーカスが久々の日本公演を行うというので、寒風の中を家族連れで後楽園球場特設会場に足を運んだ。球場の座席を利用し、グラウンドの一部をステージにした会場は、赤いテントで覆れ、ステージの右にはオートバイ乗りの大きな球体の檻と、左には熊が入った檻が置いてあるだけで、ステージそのものは非常に狭く、華かな色彩でデザインされているのだが、なんともお粗末な出来栄えだ。
中二の長男と小五の娘はこの会場を一目見ていきなり、帰ろうよ、といいだした。というのも、彼らは一昨年カリフォルニアのオークランドで、世界最大という規模の「リングリング・ブラザーズとバーナム・バリー・サーカス」(Ringling Bros. and Barnum & Bailey Circus)を見ており、その会場のスケールの大きさを知っているだけに、今回の会場がテレビのスタジオでやる子供向けのショウのように映ったようだ。また会場のほとんどが幼児とその親たちで埋められているのに対してアメリカでは、大人の観衆が圧倒的に多かったようだ。
開演の音楽とともに、アナウンスが、「世界三大サーカスの一つである、日本が世界に誇る木下大サーカスが久振りの日本公演! ……」と、ややくすぐったくなるような説明とともに三、四人のピエロが飛出してきた。
このピエロたちのオープニングで想像するところによると、どうやらこのサーカスは幼児向けに作られているということがすぐわかった。だから次々ショウが進行していっても、中二と小五の子供たちは退屈な表情で眺めているだけである。
彼らの見てきたアメリカのサーカスでは豪華な衣裳をつけた四十頭の象が、背中に美女を乗せて堂々と現れるのに対し、現在目の前に現れているのは衣裟もつけないたった三頭の裸の象だけだ。アメリカではライオンやトラ、豹などの猛獣が次から次へとたくさん現れ、見事なショウを展開するという。
サーカスのハイライトである空中ブランコを見ても子供たちは全く驚きの表情も見せず、「アメリカの方がすごい! 全く問題にならない!」と一言いって約一時間半のこの日の木下大サーカスは幕を閉じた。
ぼくは子供たちが見たアメリカのサーカスを見ていないのでなんともいえないが、巨大な会場だけは入口まで行ったので知っている。また立派なパンフレットはオールカラーで、タイアップ広告など全くなく、一寸した豪華な写真集である。わが木下サーカスが世界の三大サーカスでありながらどうしてリングリング・ブラザーズとバーナム・バリー・サーカスとこうまで大きな違いがあるのだろう。一口にいってしまえば、アメリカと日本の経済面の差異ということに落着くのだろうが、それだけではないような気もする。
ぼくたちが子供の頃、郷里で見たサーカスは、現在の木下サーカスに比較するともっと小規模なものだった。しかし、その体験は、今なお心の奥におどろおどろした姿で棲息している。これらは現在のようにアメリカナイズのショウ化されたサーカスではなく、日本的土着としての怨念がべったりと纒いついたようななんとも戦慄に満ち満ちた薄暗いものだった。
ぼくが小学生の頃、たまたま友人と『エノケンの法界坊』という映画を朝から観に行き、最終回まで一日中映画館の中にいたことがあった。家ではぼくが行方不明になったと思い、消防団員の人々を動員して、夜の山や川、そしてこの日たまたま町で公演していたサーカスの小屋を中心に捜索して廻った。この時の両親が最も心配したのは、ぼくがてっきりサーカスに連れて行かれたのではないかということだった。このようなことがなくても、町にサーカスが来る度に両親はこのことを心配していた。だからいつの間にかぼくの中にサーカスに対する固定イメージができてしまっていた。現在のサーカスのようにショウ化され、あるいはスポーツ化された健全なイメージではなく、世間の片隅で咲く朽ちた毒花のような隠微なイメージの中でぼくのサーカス観が生れていった。それはまるで遠い昔の前世の出来事を垣間見るようなものであったり、熱にうなされて見る悪夢のようであったりした。いずれにしてもサーカスはぼく自身の潜在意識の深奥を覗くようでもあった。またこれはこの時代の日本人の潜在意識でもあったような気がする。
だからサーカスといえば、どうしてもぼくの中には、子供の頃のイメージで現代のサーカスを見るので、期待がはずれてしまうのである。現代サーカスにぼくが求めるようなものは決して健全なものではなく、むしろ批判されるべきものであるが、サーカスの本質はやはりあの時代のジンタの響きが奏でる『天然の美』的サーカスではないだろうか。
空飛ぶ円盤やテレポーテーション(瞬間移動)する人々やユリ・ゲラーのような超能力人間が出現する現代では、たとえ見事な空中ブランコができても、誰ひとり驚こうとはしない。人間の能力の限界を超えた人物の出現が世界各地から伝えられる今日では、中途半端なサーカスでは人々は満足しなくなっている。巨大な資本と才能を投入したアメリカのサーカスのようであるか、あるいは、ジンタの音が聞えてくる古き良き時代のサーカスの再来か、どちらかであろう。
日本人が求めるサーカスには悲しみと哀れみがついてまわる。この日本特有のサーカス観の中で、ショウ化された日本のサーカスが生きのびていくことは非常に困難なようだ。木下大サーカスは海外遠征がほとんどだという。日本人の意識からはみ出そうとしているこの日本のサーカスはどうしても必然的に日本を離れなければならないだろう。それと同時にわれわれは今もうひとつ懐しい日本を失おうとしている。すでにあの良き時代の日本のサーカスはどこにもない。サーカスの曲芸師が暗い社会の世相の陰で不幸な時代を送っていた頃、われわれはサーカスをこよなく愛し続けた。
ぼくの子供の頃のサーカスのイメージは、曲芸師たちの意識にかかわらず、何か宿命的な悲哀の下でサーカスが存在していたような気がする。だからそこには見世物的なイメージがあり、まるで地獄絵図を一枚一枚見るような恐しい光景として今でもぼくの心の中に残っている。ここではあの哀感切々たるジンタの音による『天然の美』で、ぼくは遠い前世や死後の世界にまで想いを発展させてくれるような不思議な感覚に襲われたものだった。それらはまた奇妙にエロチックな印象でもあった。曲芸師のあの凍結したような微笑や適度に露出した肉体が、地面にむしろを敷いてその上に坐っているわれわれの頭上を行交う時、ぼくは身の毛がよだつような戦慄とともに、神を見たような恍惚が体の中を走抜けていった。
そしてこんな瞬間をぼくは非常にエロティックに感じた。その後ぼくの作品に与えたエロティシズムはおそらく、このような幼児期のサーカスや見世物小屋や、ドサ廻りの芝居などの暗くて深い、けばけばしくて、うす汚れた美学との出逢いによって生れていったような気がする、また、サーカスにはエロティシズムと同時に死のイメージが塗込められており、この世に生を受けてまだそんなに時間の経たない子供心に死の観念などを原色に塗りたくった曼陀羅模様のような宇宙感覚の中でぼくは死を恐れ、おののいていた。
だからもうぼくの心の中のサーカスは日本にも世界にもどこにもないのである。それだけにぼくのサーカスはいつまでもぼくの中に永遠に生続けており、今夜も夢の中で曲芸師たちは広大な宇宙の中を乱舞してくれるだろう。