〈無〉の瞬間
ぼくはいつも仕事の締切ぎりぎりのところまでやってこなければ創作のアイデアが浮ばない。時には時間を決めて編集者が前に現れているにもかかわらず、画用紙は真っ白のままということがしょっちゅうだ。
実は内心こうした絶体絶命の瀬戸際まで追込まれるのを待機していることさえある。まあこんな状態は非常に苦痛なことだが、アイデアが浮ばない時はどうしても駄目だ。
高輪のホテル暮しの柴田錬三郎先生としばしば一緒に仕事をすることが多いぼくは、柴田先生の誘いなどあってよくこのホテルに罐詰《かんづめ》になる。
毎朝きまって柴田先生から昼食を兼た朝食の誘いの電話があり、一緒に食事とお茶を飲む。これが完了するまでざっと三、四時間かかる。時にはこのまま夕食時間になり、その後再びお茶を飲み、別れて部屋に帰るのに延々十時間以上かかることさえざらにある。
二人共時間をもてあまして退屈しのぎにこんなことをやっているわけではない。お互に死ぬほど忙しい日もある。ところが、アイデアが浮ばなければいくら頑張ってみてもないものはでてこない。
表面的には二人共、よほどの暇人かホモに見えるが、実は内心時間がなくなっていくのを命を縮める思いで待っているのだ。つまり自らを絶体絶命の状態にもっていって後は神の啓示ともいうべき直感力にたよろうとしているのだ。
人間はよくしたものでこのような身の危険を感じた時には、とてつもない方法で、ある未知の巨きな力が味方してくれる。
この間、竜源寺の松原泰道師にお逢いした時、このような話をしたところ、師のおっしゃるのには、絶体絶命の瞬間は人間は無になっておりエゴイズムから解放されている状態で、もっとも直感力が働く一瞬でもあると説明された。
だらだらと一日中仕事をして能率があがらないより、自らを切迫した状態に追込んで、瞬間的な集中力によって従来の時間の概念を超えたわく内で完了してしまう方が、逆に過去の経験や体験にこだわることもなくかえって新しい発見と自由を獲得する結果になるのではなかろうか。
本当は意識的に危険感を生み、締切り間際まで時間をのばさずに無になる瞬間が作れるようになれば、ぼくは超人になったと同様だ。