神の選民
数年前、交通事故でしばらく入院することになり、これを機会に仕事の方もしばらく休んでみようという気になったことがあった。ぼくにとって仕事を休むということはとても楽しいことだと考えていたのに、全くその反対で毎日が死ぬほど苦しかった。何もしなくなると考えることといったら、自分の死のことや死後の世界のことばかりで、こうした実相がはっきりつかめないだけに、ぼくはわけのわからない恐怖感にいつも襲れるようになってしまった。
こんなことから、地震や公害がとても恐しく、ついには地球そのものが恐怖の対象になってしまい、このままでいると重症のノイローゼ患者になりかねないと考え、先ず救いを仏教書に求めることになった。そして、この日からぼくは宇宙のとりこになってしまったのである。
宇宙について考えることは恐怖を超え、安心立命の世界に入ることであったが、宇宙の概念があまりにも広大無辺なためにかえって恐しくなることもあった。しかし宇宙のとりこになってから不思議なことには、今まで何でもなかったものが大変美しく見えたり、また反対に美しいと考えていたものが、実は宇宙的なスケールから見ればちっとも美しくない、と思うようになった。
例えば人工的なものより自然が美しく見えるようになったことはぼくにとっていちばん大きな収穫だったような気がする。またいつの間にか夢の世界が生き生きとして昼の世界に通じあっているという感覚や、世の中全てに起こる超常現象がちっとも不思議に思えず、まるで当然のような気さえするようになった。こんなことから合理的なもの全てに拒絶反応を起すようになってしまい、この点で都会生活がとても困難になり、現在の自分に大きな矛盾を感じてしまい、まだまだ宇宙意識がぼくの中で完全に作動していないことを知ってがっかりもするのだ。
神や、愛や、自然や、死や、夢や、宇宙空間や、空飛ぶ円盤や、シャンバラや、失われた大陸などは全てぼくにとっては宇宙の焦点であり、生命の根源でもある。
地球自体がいまだかつて我々が経験したことのないような大きな転換期を迎えようとしており、その時期は恐らく今世紀に起こるだろうという予感に、ぼくは何ものかに追ったてられるようにあせっている。聖書の予言を信じるぼくは当然神の選民でありたいと希求するし、その資格たらんと努力しなければならないと思うが、この求める心こそエゴイズムではなかろうか、とまたまた悩むのである。
終末の世に終末を信じないで生きることの方が困難だが、ぼくは宇宙の全てを信じることによってなぜか救われるような気がするのである。宇宙はぼくにとって救世主である。神も、愛も、死も、夢も、自然も、空飛ぶ円盤も、ぼくをとりまく全ての想念が救世主である。そしてぼくの宇宙観は来世にまで続き、そして恐らくそこで達成できるであろう宇宙との合体のために、ぼくの魂は少しずつその準備を始めようとしている。
ぼくの次の生はおそらく二十一世紀にあり、この世紀はかつて人類が迎えたことのない輝ける光明の世界になることと確信しているだけに、来世のカルマの原因になる今生をできるだけ素晴しく生きたいと思う。そして願望は無限に続き、いつかあの空飛ぶ円盤に乗ってくる異星の人々の子として転生したいと心から望んでいる。