自然について
ぼくは最近人間は本当に自然の産物であり、自然の一部分であるという強い認識を持つようになってきた。ぼくは現在家では玄米と菜食をしている。これにはちょっとした理由がある。以前ぼくは動脈|血栓《けつせん》という恐しい病気にかかり、あわや足の切断をまぬがれたわけだが、これが鍼《はり》、灸《きゆう》、按摩《あんま》という東洋医学によって完治した。入院中の病院では半ば治療にサジを投げかけており、ただただ連日の血液検査と多種多様の投薬によるだけで、これという決定的な治療法は見つからないまま、ぼくは不治のまま退院せざるを得なかった。そんな時ぼくはある友人の紹介により東洋医学の先生を知り、鍼、灸、按摩という自然治療により救われたのである。
こんなことからぼくは西洋医学に対する不信と絶望を抱くようになり、その後どんなことがあっても薬だけは飲まなくなった。入院中、ぼくは苦痛をまぎらわすために仏教書を読むきっかけを持ち、人間と自然のあり方に現在の自分の生活を大いに反省させられると同時に、人間は常に自然の一部分であり、この大自然の法則にかなった生き方をすれば人間は真の健康と自由を得るということを教えられた。病院での薬がケミカルである以上自然物としての肉体に合うはずがない、それより、一切の薬剤を使用しない鍼、灸、按摩による一見非合理とも思われるが、西洋医学より歴史も古い東洋的な治療の方がよほど自然の法則に合っている。
この考えは全く正しく、この治療法にかかるようになってからは日増しに、ぼくは自然のサイクルとかみ合うようになってきた。今まで好物だった肉を極力避けるようになった。それからは仏教や、インド旅行などからの経験により、意外と好物の肉を止めることに苦痛を感じなくなった。肉を止めることによりぼくの肉体の血液は以前より多少は浄化されたような気がする。そしてあんなに嫌いだった野菜や玄米が主食になってしまった。こうした食餌の転換には仏教が非常に大きく影響していた。不思議なもので味覚さえも、思想に影響されることを知った。今では肉がまずく、野菜がうまく感じられるのだから実に面白い。
こうした影響は、以前から、アメリカの若者のヒッピー・ムーブメントを中心とした、自然と共存するというライフ・スタイルに大いに憧れていたという下地がさらに仏教やインド指向によりぼくをたやすく変えたのかも知れない。
菜食と同時にぼくはまたヨーガを始めることになった。ヨーガは心身の統一を計り、自らを大自然あるいは宇宙的バイブレーションと一体とさせ、己を解放し真の自由を獲得することを目的とするのである。こうしたぼくのライフ・スタイルは徐々にぼくの作品のスタイルを反文明的な方向に変容していった。そして常にぼくの心や体が今何を要求しているかということが少しずつわかるようになってきた。仕事がオーバーになると、ぼくの心は旅を要求し、自然の中に自分を解放させてくれる方向に導いてくれる。
この原稿が活字になる頃、ぼくは恐らくインドにいるはずである。インドに一ヵ月、その後、いったん帰国後、スペインの田舎、夏の二ヵ月はヨーロッパとアメリカの旅に出、再び秋には三度目のインドへの旅が待っている。こうした集中的な旅への欲望もぼくの内からの自然への呼びかけでもある。
今度のインド旅行ではぼくはどこかの小さな村か寺院で生活してみたいと考えている。そしてゆるやかに流れるインドの大自然の時間の中にぼく自身を大いに解放してみたいとも考えている。ぼくの考えでは、大自然こそ最高の知恵で、もし人間がこの大自然に波長を合せるなら、流れるごとく大自然の知恵を受け、この森羅万象の秘密というか真理を授けられ、永遠の生と平和をわがものにできるはずだ。
仏陀が悟ったのもこうしたインドの大自然の中で自らを放棄することによって大いなる真我を得たわけで、人間と自然とは切っても切れない一体物であることを物語っている。ところが現代のわれわれの生活や考えといえば、あふれるばかりの物質と情報の社会の中で、いつの間にか物質崇拝の唯物観にささえられて、非常に反自然的な生活を送っている人が大部分である。
人間が環境に順応することは確かである。しかし現代のような限界を超えた人工的環境に適応させようとする方向を誰が正しいといえよう。敏感な人達、つまり人工的な都会生活のバイブレーションに背を向る人達は次第に都会を去り、自然の中にその居を移しつつある。都会を去って自然の環境に移ることのできる数少ない人々は、精神生活を優先し、自己執着から解放された人々である。大部分の人達は物質を崇拝する生活に自らの幸せを求めているために、欲望から解放されないでいる。ぼくの知人の中にも、今までの安定した経済生活に終止符を打って、家族共々大自然の中で新しい生活を始めた人達が何人かいる。
近い未来のぼくの夢はこのような人々と同じ生活をすることだ。夢に終るか実現できるかは今のところヒフティ・ヒフティだが、これもぼくのカルマ(因果)によって決定されるものだからあせってみても仕方ないと思っている。ただ想いが強ければ必ずそのことは実現するという信念の魔術に従って、ぼくは日々この想念を強めていくのみである。