グレゴリオ聖歌
この間伊勢丹デパートで「千年王国への旅」と題して過去四年間のポスターと版画を中心にした作品展を開いたが、その時会場に流したレコード音楽が「グレゴリオ聖歌」だった。展覧会の鑑賞者の大部分は若い人たちだったが、この聴きなれない神秘的な音楽に相当数の人たちが興味を持ち、レコードの題名と会社名を教えてほしいという間合せが連日相次いだ。
ぼくの作品の主題がインドや宇宙や古代文明、それから仏教的なものから聖書の世界に至る超常現象から宗教的なものが中心になっているので、よりこうした世界を音楽で立体的に表現できればと思い、なるべく透明感があり浄化作用のある音楽ということで、直感的にグレゴリオ聖歌を選ぶことにした。
四年前友人のデザイナーである植松国臣さんの家でぼくはこの「グレゴリオ聖歌」三枚組《キング》を聴いて、驚くほど感動した。以前にもヨーロッパ映画の中などで度々聴いた記憶はあったが、こうしてステレオからじかに蔽《おお》いかぶさるような圧倒的な迫力に、ぼくの背骨は引っこ抜かれるほどの電撃的なショックを受け、身体がこのまま音の世界に溶解していくのではないかと思われたくらいだった。ロックや現代音楽には絶対ないある不思議な未知の力を持っており、音楽以上のものを感ぜざるを得なかった。部屋の空気が振動して微妙な波動を起し、何か霊的な体験でもしているような気分でもあった。聴覚ではなく、魂に直接訴えるこの天上の響きは、言語的機能を超え音魂の波動となってぼくの内省宇宙にひろがっていった。
「グレゴリオ聖歌」はぼくをたちまちギュスターブ・ドーレやウィリアム・ブレイクが描くダンテの神曲の世界に案内してくれた。天上から下降し、再び大地からゆるやかに上昇していく祈りと叫びは、まるで地球の引力から解放されたような恍惚《こうこつ》感を呼び、ぼくの魂に霊感の息を吹込んでくれるようだった。
こうした植松家の「グレゴリオ聖歌」体験により、ぼくの作品が現実世界から分離し始めたわけだが、これほど端的にものの考え方に大きな影響や変化を与えた音楽は人生のうちにそう何べんもあるものではない。
今までにも何度かの人生の分岐点があったが、不思議なことに必ずこの時期の立会人としての音楽があったような気がする。美空ひばりから始まって、石原裕次郎、高倉健、ビートルズ、プログレッシブ・ロック、インドのアリアクバカーン、そして今「グレゴリオ聖歌」ということで、いつの間にか俗なるものから聖なるものへと好みが変容してきた。
植松家で「グレゴリオ聖歌」に感涙したせいか、植松さんはこの三枚組の「グレゴリオ聖歌」をその場でぼくにくれた。早速持帰ったぼくはこの夜再び床の中でこの霊験あらたかな音の中に深く永く瞑想《めいそう》した。そしてこの音楽のような世界をなんとかして作品の中に表現させたいという念願がこの日から続いた。ぼくにとってグレゴリオ聖歌は単なる音楽ではなく、宇宙の波動音と考えている。だからぼくの想念の波動とグレゴリオ聖歌のそれが一致した時、ぼくはぼく自身の肉体から解放され、魂における真の自由を獲得することができるに違いないと考えている。ぼくはそれでもまだ耳でこの音を知覚している。ぼく自身がこの音と一体になる時がいつか来ると信じ、今日もまたこのレコードをかけている。最近は「グレゴリオ聖歌集大成」(ロンドン)という二十枚組の超豪華版を手に入れた。全部聴くには十三時間を要する。しかしひとたび音の世界に入ってしまえば、現実は分離され、時の流れはストップする。