UFOと救済
ぼくはUFOの存在を信じます。今さらこんな風にあらためていうのもおかしいほど、最近では多くの人々がUFOを目撃し、その存在を信じ、UFOとのテレパシックによるコンタクターや宇宙人目撃者や或いは円盤同乗者まで現れ、日々われわれの周辺は円盤ラッシュの状況を呈している。
ぼくが初めてUFOを目撃してから二十数年経つが、特にここ四、五年集中的に再びUFOを目撃するようになった。UFOへの関心が強くなった直接の原因は五、六年前から頻繁に夢の中にUFOや宇宙人が現れるようになってからである。当時はまだ今日のようにUFOがマスコミでこんなに騒がれていなかったし、誰ともこのことについて話をする事はなかったので、この頃発行されているすべてのUFO関係の書物や二、三のUFO研究団体からの資料を頼りに、独りで研究? するより方法はなかった。
UFOの問題を深く掘下げてゆくにつれて、ぼくはいつの間にかアトランティスやムーなどの超古代文明の世界に足を踏入れなければならなくなっていた。現在でこそUFOと古代文明は定説になっているが、この二つの関係を当時初めてぼくの中で結びつけることができた時、ぼくは大変な発見をしたものだと内心興奮したものである。UFOと古代文明の関係はさらに各国の聖典や神話、伝説へと発展して、ついにぼくは宗教的世界へ入っていく自分を発見したのである。
ぼくの当初の考えはUFOを目撃し、そしていつか彼等とコンタクトを持ちたいという願いが非常に強かった。今でも、多少ともこの考えは残っているが、最近ではUFOとコンタクトするより先ず自分自身をもっと深く知り、根底から己を解放し、粗雑な欲望から自由になることの方にぼく自身の真の生き方があるような気がして来たのである。このような考え方になったのも元を正せばUFOへの関心からである。
UFOのお蔭? でぼくは仏典や聖書に魅かれるようになった。特に難解だといわれる聖書を宇宙人とのコンタクト・ストーリーとして読んでいくと、ぼくは不思議にあの説教じみた教えがとても楽しく聞かれ、物語自体がとてつもない宇宙的スケールとなってまるでサイエンス・フィクションを読んでいるような気になってくるのだった。教会や寺院で説かれる神や仏には全く興味がなかったが、UFOの問題を根底にして聖典を読んでいくと、つまる所は人間は宇宙の一部であり、自ら宇宙的知覚の扉を開けばわれわれはいつでもニューバイブレーションの中で真の自由を得るといっていることがわかってとても嬉しかった。
さて誰もが一番知りたいのはUFO飛来の目的である。ぼくの集めた色んなデーターから推測すると、どうやら人類自体のカルマにより、この地球がアトランティスやムーが海底に没したようにあの二の舞ともいうべき大いなる悲劇を迎えようとしている運命の予告と、人類の精神的向上の促進をわれわれの想像を絶した方法と技術によって宇宙人が人類に援助の手として差しのべているような気がしてならない。こうした彼等のスペース・プログラムは今さら始まったわけではなく人類の創成期時代から彼等は人類を観察してきていることは、多くの記録の中に残されていることである。
いつまでも円盤の信憑性を云々したり、いつまでもデニケン的発想に留らず、自らを宇宙的存在として考える時期に来ているのではないだろうか? 人間の存在を考えれば考えるほど、これほど神秘的存在はちょっと他にないような気がする。人間だけではないこの大自然、大宇宙の一つ一つの出来事自体、われわれの存在を超えた何か偉大な力が加わっているとしか考えられないのである。われわれが生かされていること自体不思議である。地球を造ったのも、人間を造ったのも、われわれではないことは確かである。人間の細胞ひとつにしても、われわれの関知しない次元の産物である。人類が真に謙虚になった時、この宇宙の大神秘や法則が理解できるはずだ。人類は確かに間違った方向を歩んでいるような気がする。そしてこの方向に適応していく科学や心も宇宙の法則に反しているはずである。われわれにとっては、未知の存在としか考えられないUFOをこの際もっと身近に考えてみることにより、われわれは思いもよらない発見をすると同時に、大いなるあやまちを犯していることに気づくはずである。恐らくUFOやその搭乗者である宇宙人は、われわれと全く異なった生き方をしているはずである。UFOの動力にしても、人類が未発見の宇宙的エネルギーにより、宇宙の流れを利用して飛行しているのだろうし、またわれわれの時間とか空間という観念では計れないレベルで、彼等自身が宇宙そのもの[#「宇宙そのもの」に傍点]として存在しているはずだ。とにかくわれわれ地球人は多くの点で反宇宙的存在であり過ぎる。