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黒パン俘虜記1-5
日期:2018-10-26 23:04  点击:269
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 春になり氷が溶けてきて、耳や、手足は、凍傷の心配がなくなってきた。ぼくも働いていて体の動作が楽になってきた。
 だが一息つけたわけではない。パンと交換する私物を持たぬ定量しか喰べていない人の栄養失調は確実にすすんできた。各作業場では、足の太腿《ふともも》が腕ほどに細くなり、歩いている最中に、急に膝が持ち上らなくなって倒れて、そのまま死ぬ者が出てきた。それでも作業量や速度は変更されなかった。
 代りに今まで何もなかった地面に、見る間に、煉瓦を積んで作られた四角いビルが並んだ。地震のない国だから、こんな程度の作業で、高層建築ができ上る。
 ぼくがいた収容所は、煉瓦焼工場から運ばれて、野積みにされた煉瓦を背中の木製の背負《しよ》い子《こ》に三十枚ずつ積んで、作業場まで運ぶ仕事が専門だった。最初は一日九百枚だったのが千二百枚にまで定量がふえた。初め平地だった作業現場が、だんだん高い空間に上る。それでも定量は変らず、人々は蟻《あり》のように並び細い木の足場を踏んで、ビルに登って行った。ビルが出来上るにつれて、一日の労働は重くなる。幾らかましなことといったら、他の収容所の煉瓦作りの労働者が、土を練る手数を減らすため、煉瓦一枚の厚さが減って、目方が軽くなってきたことだ。それでも一枚は一枚。こんなところが定量制のうまみで、三十枚でもかつての二十五枚ぐらいの重さしかなく、皆これで少し助かっていた。
 やがて帝国側は、以前と同じ数の煉瓦を積んでも、なかなか所定の高さの壁や床ができないのに気がつく。牧畜民である彼らのおおざっぱな頭ではその原因が分らない。だから監督の現地人は毎日ヒステリックに喚《わめ》き散らす。その中をぼくや仲間は、知らぬ顔で上下がえぐられた煉瓦を運んでいた。昼近くなると陽が当り気温が上ってくる。それにつれて疲労と空腹がこたえてくる。建物の壁に張り渡された足場の板を、二列に並んだ労働者たちが登って行く中にぼくも交って歩いていた。ぼくの目の前にいた男が隣りの男にふと話しかけた。殆どしゃべることのない労働者にとっては、かなり異常なことだったし、話す内容は前後の人々を驚かすようなことだった。
「おめえ、豪勢じゃねえか。何か喰べてんのかね」
 ぼくは聞き耳をたてた。聞かれた男は何も答えずに口をもぐもぐさせている。割りあて以上の食物はぼくのように特殊な芸で稼ぐか、大事な持物を売る以外は一粒でもあるはずはない。前後の人々が嫉妬《しつと》心で刺すような目つきになった。目つきに負けてその男は歩きながら、一度それを飲みこんで胃におさめてから答えた。
「喰ってるんじゃねえ。楽しんでるだけだ。喰べ物なんかどこにもあるわけねえよ」
「それじゃ犬の骨でもしゃぶってたのか」
「そうじゃねえ。朝飯をもう一度喰い直していたんだ」
「朝飯が今まで持つはずあるか。嘘《うそ》つき」
 煉瓦積み工の前まで来たので口論は止《や》んだ。二人は背中を向ける。卸し係がすぐ三十枚の煉瓦を背負い子から外す。背中が浮き上るように軽くなるが、歩調の方は相変らずで板の梯子《はしご》を下りて行く。次にぼくの番になり背中を向けて卸すと、再び二人の後をついていった。軽くなったからといって足を速めない。四十往復の作業量だ。いつものろのろと同じ調子で歩かないと体が参ってしまう。二人の話は再開されていた。
「胃に入った喰い物をもう一度戻すのさ」
「そんなうまいこと本当にできるのか。それなら教えろよ」
 それはぼくにも大いに興味があった。
 聞かれた相手は楽々と口に戻してみせ、噛《か》み直して楽しみながら物惜しげにいった。
「おれはね、地方《しやば》では牛を扱う商売をしていてね」
 地方とは軍以外の一般社会のことを示す言葉だった。
「そのときに見たことでヒントを得たんだよ。牛の奴は、朝飯を一回やると、後は一日中口の中でもぐもぐして楽しんでやがる。それでおれもどうにかそのまねができねえかと考えたんだよ。これは何しろ一旦覚えたら、毎日楽しめるんだから、只で教えてやるのは勿体ない。夕食の粥、匙《さじ》二杯だけよこすか」
「ケチ! 分ったよ。やるよ。教えてくれ」
「初めは手を使う。ぐっと息をつめ、腹の皮を胃に向って押えつけるんだ。皮の裏側に力をこめて、少しずつ胸の方に指先で持ち上げる。喰い物が食道に吸い上げられ口の中へ出てくる。馴れれば手を使わなくても、欠伸《あくび》をするようにして自然に出てくる。味はちょっと苦いが、我々にはそんなことどうでもいいことだ。舌の上に喰い物があれば、こんな幸せはないからな」
「ありがとう。今晩からやってみる」
「二匙くれるのを忘れるな」
 後ろで聞いていたぼくは自分で試そうとまでは思わなかったが、それはぼくが演芸や通訳で人より少しは余計に喰べているからだ。この半年、無抵抗の人間の脆《もろ》さを、毎日のように見聞きしていたので、久しぶりにたくましく生きる知恵を持った男を発見して嬉しかった。この人はきっと生きて再びこの国を出、祖国の土を踏めるに違いないと思った。
 その夜のことだった。
 収容所で朝と同じ薄い粥を喰べている人々のところに小政が珍しく顔を出した。
「こう! 良いことを知らせるから、ようく聞けよ。今度の作業が五月一日までに片づいたら、一週間の作業休みと、一人あたり丸一本の白パンが配給になるという通知が、司令部から届けられたぞい。明日から一つ、馬力かけて働いてくれい」
 ぼくにはそれがすぐ嘘と分った。この国では白パンは政府の高官以外は口に出来ないのだ。俘虜に回すはずはなかった。この指導者は巧妙な鞭《むち》と飴《あめ》の使い分けをした。鞭は毎日目の前に唸っているが、飴の方は全くの幻影を供給したのだ。
 まだ二カ月先の白パンでは話が遠すぎるが、人々は久しぶりに昂奮《こうふん》して、なかなか寝つかれなくなった。現役兵の中には、白パン一本をまとめて喰べる日のことを想像しているうちに、性器に血が集中して半年ぶりの勃起《ぼつき》をしてしまい、自然に手でそこを押えた者が何人かいた。口の中で柔らかく咀嚼《そしやく》されていく架空の快楽の甘美さが、無意識の手の動きとなった。こんなに栄養が不足しているのに、若さとは不思議なもので、嚥下《えんか》の想像と共に、白い飛沫《しぶき》の噴射を知った。誰にとっても入国以来初めての性衝動であった。
 もう眠れなくなった人々は、お互いに食物の話を始めだした。ぼくの周囲でも人々の話はいつになく賑《にぎ》やかであった。
 寿司の握り方。カツの揚げ方。パンのふくらませ方。
 パン職人だったと自称する男が、回りの人間に、重曹と炭酸ではどちらがよくふくらむか得意そうにしゃべりだした。そのときわきで寝ながら聞いていた男が
「重炭酸|曹達《ソーダ》といってな、重曹と炭酸はまるで同じものだぜ」
 とぼそっといい、それで名講義は俄《にわ》かに色あせて、パン職人だったという羨望された過去の権威は失墜してしまった。
 今日もまた重油ランプの下で塑像のように動かずにじっと本を見ている老人が一人いた。占領軍が二万人の員数を合せるために、民間居留民団からひっぱってきた、旧植民地で県の参事をしていた五十をすぎている役人だった。読書は食事後の習慣だったが、今日は一層熱心だった。内懐にいつも肌身離さず持っている大事な本は、三年前の『主婦之友』二月特別号附録、家庭料理全集という小型の本であった。表紙をあけると両側からの折りたたみページがあり、四ページ分の広さで、彩色写真のお花見弁当の特集がしてあった。のりまき、いなりずし、ごま塩握り。形よく添えられた、海老の鬼ガラ焼き。かまぼこ、玉子焼き、野菜のうま煮。
 この老人のお気に入りは、その中でも五色おはぎの重箱で、何時間見つめていても飽きない。いつか作業場の昼休みにぼくも一度その本を見せてもらったことがある。そのときもう歯の抜けた口で老人はいった。
「私は故郷に帰ってこれを喰うまでは、決して死にませんよ」
 老人の目はその一点に止まってもう三十分も動かない。明日も生き抜く執念を充電《チヤージ》しているのだ。
 廊下の向い側の棚で、突然大声がしてぼくはびっくりして半身を起した。
「畜生、てめえという奴は」
 どなった男は、枕代りの煉瓦のかけらを振り上げていた。怒鳴られた男は、相手の手を必死で押えていた。今にも頭がぶち破られそうであった。
 怒った方は古参の下士で、殴られそうなのは、その男に教育された大学出の初年兵であった。白パンのニュースで昂奮した初年兵がついおだてにのせられて、自分が喰べた洋食の話を始めた。特に夕方になると、肉屋が店頭で作りながら売り出すコロッケと、それより少し値の高いメンチボールについての、微に入り細にわたっての説明が、古参の忍耐の限界を越えた。兵隊にとられるまでの二十年間を山国の寒村で過し、味噌汁と香の物しか|おかず《ヽヽヽ》というものを知らず、米の飯は正月と祭りの日以外喰べたことのないこの下士にとっては、それらの喰べ物を知らずに過してきた歳月が今|堪《たま》らなく口惜しくなってきたのだ。初年兵のくせに、そんな豪気《ごうぎ》な思い出を持っているなどあまりに理不尽である。
「もう一度、メンチボールのメとでもいってみい。てめえの頭の骨は粉々にしてやるわい」
 二人は組み合って二、三分もんでいた。もし一年前だったら、初年兵は身を守るため、頭に手を上げることさえ許されなかったろう。互いに身分差のない虜囚だったことが、初年兵の生命を救った。二人の力が尽きた。下士はくたびれて煉瓦をおき、二人ともぐったりして並んで横になると、もう口もきけなかった。夕食の粥の分のエネルギーはこれで浪費してしまった。
 ぼくの足の所に間仕切りがあり、その先にももう一列、足を向けて兵隊が並んで寝ていた。
 さっき反芻《はんすう》を覚えた男がそこにいた。今が反芻に一番いい時間らしい。完全に消化してしまった後では、無い袖は振れずで、口の中には戻ってこない。たしかこの人は元警官だ。
 うつむいて、人に分らぬようにしながら、黙々として口を動かしているのが見えた。嬉しそうな顔をして楽しんでいた。

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