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二月の二十五日の昼ごろ車が一台やってきた。乗用車一台だけだったので、患者の間にはいつもの引取りトラックのときと違って、パニックは起らなかった。
ズボンに赤線が入っている、若い蒙古人の特務の将校が下りると、病院へは寄らず、直接死体小屋の方へ来た。
正面玄関から病院側の事務員と、春日通訳が飛び出してきて、特務将校を迎えた。三人で小屋の前まで来たが、死体の臭気に顔をしかめた特務将校は、三十メートルぐらい手前で止まると、通訳に何かいった。春日通訳はいつものように大きい声で小屋に呼びかけた。
「オツカン君いたら顔を出しなさい」
乙幹は階級名だが、ここでも、ぼくの通称になっていた。計量中途の血だらけの軍手を脱いで出て行くと、次々に指示が伝えられた。殆ど同時の通訳だった。
「そこに直立しなさい」
「はい」
「只今から司令部の命令を伝えます。君の刑期は四カ月。本日を以て終了した。以後は一般の作業に従事するが、別命があるまでは、病院に止まって、病院の仕事を手伝っているように」
公式の命令はこれで終り、更に春日通訳から個人的に追加の指示があった。ここにある私物袋を持って、病院の三階にある勤務用員の宿舎に入るのだが、それ以前に熱気消毒室《デスカメラ》に行って、一切の衣服を吊して、虱《しらみ》を殺しておくようにとのことだった。
午後にはぼくは、さっぱりした下着まで支給されて、病院の本屋《ほんおく》の宿舎に移った。病院の主翼は三階建てになっていた。ただし三階には病室はなく、毛布と白衣の倉庫、薬品、器具の保管所、それに勤務員の寝場所の部屋が三部屋ばかりあった。
夕方、春日通訳に案内されて、三部屋の中央にある高級内務職員用の部屋に入った。入ってすぐ、そこが他の宿舎と全く違う柔らかな雰囲気に包まれていることが感じられた。寝そべっている人々の表情や、動作からして違う。誰も酷寒の戸外に働いたことのないせいで、皮膚の凍傷や、掌のひびあかぎれがない。適当に肉のついた人間らしい肢体と、おだやかな表情をしている。僅かの喰べ物しかあたえられないためお互いの生命を喰い合って生きているようなきびしい態度になっている人は全くいない。
「よろしくお願いします」
床に膝をついて挨拶すると、既に休養していた室内の人が皆あわてて膝を揃えて
「こちらこそ、よろしく」
と挨拶を返した。普通はどこだってこんな場合、無言の敵意が戻ってくるだけなのだ。予想もしていなかったので、こちらが却って慌ててしまったほどだった。
後に分ったことだが、この部屋の左右に二つずつある退院者たちの臨時の内勤職員の大部屋には、こんな温かい雰囲気はやはりなかった。いつ引取りのトラックが来るか、そればかりに脅《おび》えている不安と猜疑心《さいぎしん》で苛《いら》だった、とげとげした空気がみちていた。
ぼくはいきなり何段階も特進して、この病院での最高のエリートたちが住む、温室への仲間入りが許されたのだ。
蒙古側によって保証されている安定した身分の人々は、広い部屋を二十人ほどで占有してゆったりと寝起きしていた。ほしいだけの毛布をかぶり、手足をのばして温かく眠ることができた。一人ぐらい新しく割りこんできたところで、ここの生活に何の影響もない余裕が、人々の礼儀正しさと穏やかさを生んでいた。
二十人の居住者のうち七人は軍医であり、民間の開業医も二名いた。他に衛生兵が五人と、薬剤師と称する人が五人いたが、この薬剤師と称する人が竹田軍医のいった協和会系の民間人で、特有の政治力で早くから病院に喰いこみ、事務の仕事を独占していた。もう一人が、折衝係一切を引き受けている春日通訳であった。
人間何が役にたつか分らない。中学校時代、勉強をさぼって映画ばかり見ていたおかげで、この優れた環境に仲間入りして、取りあえずの生命を永らえることができた。
ぼくはその夜から早速この快適な環境の中で、激しい制作意欲を燃やして最初の公演の準備にかかることになった。
封切日は三月一日と決められている。三日しかない。
最初の作業は、第一回公演《こけらおとし》の演目を決定することだ。二百近くもあるレパートリーから、皆を唸《うな》らせ、以後ずっとこの病院に居残れるような名作を一つ選ばなくてはならない。
のっけに失敗すれば、間違いなく吉村隊に送り出される。ぼくには吉村隊のきびしい作《ノ》業|定量《ルム》は達成できないだろう。酷寒の戸外で裸で木につながれる怖しいリンチが待っている。最初の一発が勝負だ。頭の中にはさまざまのタイトルが行き来した。いずれも一長一短、脂汗《あぶらあせ》を絞るような思いで選考にかかった。
まず規準を過去の反響に求めた。前の収容所のボスである小政やその仲間たちは、一体何を喜んだろうか。無法松の一生、姿三四郎、瞼の母、駅馬車、望郷、などが好評だったが、しかし、こういう硬派アクションの他に、案外、白鳥の死、乙女の湖、制服の処女、格子なき牢獄、などの女性路線も評判がよかった。ロマンチックな要素より、女が沢山出てくる物語は、満ち足りた人々の淫《みだ》らな妄想をかきたてるのに役にたったのだろう。
だがぼくには、ここで折角機会をあたえられたのだから、文芸ロマンチック大作を公演したい欲が俄《にわ》かに出てきた。
大学へ入った年の春のできごとが思い出された。親しくしていた友人に兄がいて、その兄が当時国民映画として、日本中の人が見るように動員された、真珠湾特攻隊を主人公にした『海軍』という映画の主役に抜擢《ばつてき》され、一躍日本中のアイドルになった。ただしこの兄はそのときぼくらの行《おこな》ったこととは関係ない。
友人であるその弟はシナリオ・ライター志望で山内といった。ぼくの、原節子のような美しい映画女優と結婚したいためだという、いささか邪《よこし》まな願いがかかっているシナリオ・ライター志望と違って、まじめな志望者であった。この山内と計って、二人のお互いの知り合いの女の子を動員して芝居をやることにした。戦時中のもう空襲の気配で緊迫した時期のドサクサまぎれに、浅草の並木倶楽部という、義太夫や長唄の温習会用の貸席を借りて、フランスの翻訳劇をやったのである。
よく開演中に、憲兵や特高に踏みこまれなかったものと、終った後で却ってしばらく恐怖が去らなかったが、やってる最中はもう全身が燃えて無我夢中であった。学生の徴兵延期は突然中止され、徴集年齢も十九歳に引き下げられた。いずれ特攻隊で死ななくてはならないのなら、やるだけのことはやってしまおうという開き直った度胸があった。見る方にもそんな気分が流れていた。浅草の田原町の奥にある貸席は、当日、国防服にゲートルを巻いた学生と、紺のモンペに白いブラウス、胸に名前と血液型を書いた布を縫いつけた少女たちで、廊下にも溢《あふ》れるほどの満員になった。
そのときの演目は『商船テナシチイ』だった。当時人気があったフランス現代劇であったが、シャルル・ヴィルドラックの戯曲をそのままやるのは少し難しかったので、デュヴィヴィエの映画の筋立ても借りて、友人の山内がかなり上手に作り直してくれた。
主食の配給は大豆粕が三割交った米、学問の代りに銃剣術の稽古。朝から晩までどなり散らす教練教官、文化的な物が何一つなかった当時の学生にとっては、フランスという言葉だけで胸がときめいた。
ぼくはその芝居の中で、積極的だが最後に友人を裏切る、バスチャンという青年に扮《ふん》し、山内が気が弱いが結局その志を貫く、セガールという青年をやった。
あのときの幕切れの拍手と熱狂は、その後長い間ぼくを酔わせ、思い出すたびに胸が熱くなった。宿の女中のテレーズの役をやってくれた丸顔のかわいい少女は今ごろどうしているだろうか。生毛《うぶげ》の光っている素肌の頬のあたりが、急に目の前に浮んできたりした。
ぼくはアムラルト病院での第一回公演に、その商船テナシチイをやろうと決めた。決めたすぐから迷いが出た。ここではあのテーマは少し難解かもしれない。受けるだろうか。しかし何事もやって見なくては分らない。これも賭けだ。度胸を据えた。これからの病院での安穏な生活はほしい。でも自分の青春の記念をもう一度振返ってみることの方が、そのときのぼくには大事なことのように思えてきた。駄目だったら玉砕しよう。それに話術には自信があった。きっと面白い物語にしてみせる。
翌朝、春日通訳が指定してくれた絵描きに会いに、二階の左側の翼の外科病棟を訪ねた。菊地軍曹という日本画系の画家で、文展には二回入選しているという。足が骨折して歩くことができないらしい。それは逆からいえば、長期の入院が保証されている安定した境遇でもある。
ぼくが訪ねて行くと、彼は廊下に直接マットレスを敷いて何人か休んでいる患者の中から、半身を起して
「いやあーお待ちしていましたよ」
と嬉しそうにいった。入院が長いらしく、色白でおっとりした顔をしていた。
「ほら、これを見てください。もう材料は、春日さんが手配してくれました」
枕もとには薬品の大箱を切りとって揃えた、裏が真白な紙の束があった。
「舞台の方は、さっき地方《しやば》で建具職人をやっていた男が相談に来ましたので、この紙に合せて、自分が独断で寸法をひいておきましたよ」
「何から何まですみません」
ぼくは礼をいうばかりだったが、ぼくらの回りには、早くも噂を聞きつけた、軽症の患者で、人だかりがしていた。近く映画紙芝居が始まるというニュースは、もう病院中に駆け巡っているらしい。
「それで第一回は何をやります」
人の好さそうな絵描きの下士官が早速きいた。その顔を見ながら、この人はフランスの現代風俗を描けるだろうかと、内心少し不安になってきた。
「商船テナシチイというフランス映画をやろうと思っているのですが」
一瞬ほうと声を出したが、別に困った顔をせず、むしろ懐かしそうにいった。
「そりゃーいい。ぼくは金杉と友人でね。二人でよく銀座で飲んだ仲ですよ」
これにはぶったまげた。
当時の日本では、フランスの現代喜劇は必ず金杉敦郎という人が主宰する劇団テアトル・コメディによって最初に紹介された。翻訳演劇に憧れる人にとっては、金杉という名は神様のような存在であった。もっともそれは金杉の力でなく、フランス留学から帰ってきたばかりの、若く美しい彼の婚約者の長岡輝子さんが、片っぱしから上手に翻訳してくれるせいだという、やっかみ半分の世評もあった。
画家からこともなげにその神様と飲み仲間といわれては、完全に出鼻をへし折られた。世の中、上には上がいるものだと思いながら、急にぼくの言葉も丁重になった。
「それでは説明の手間が省けて助かります。絵組みだけまず作ってしまいましょう。全体を二十枚でまとめます。図柄や動きの関係から、戯曲よりデュヴィヴィエの映画のイメージの方を、主に取りこんで行きたいのですが」
「自分もその方が楽ですよ。映画も二度も見ていますよ。港の外景の方がクレーンやブイがあって、画にしやすい」
一枚ずつ決めていくうちに、二人はお互いに、映画のカメラマンや監督になったような気分になり、のってきた。
二日の間、ぼくが頭の中で説明を二十枚の絵に割るため努力しているとき、画伯は見事に仕上げてくれた。二日目の夕方には、出来上りを見ることができたが、フランス映画特有の軟調《ソフト》なフィルムの焼き上りが、そのまま墨の濃淡で紙の上に再現されていた。
この映画はタイトルからエンドマークまで実際の映写時間は一時間四十分ぐらいだ。だからぼくの説明も頭の中でフィルムを回しながら、一時間四十分でしゃべる。名匠の作った映画の流れというものは、計算しつくしてできているので、順を追ってしゃべって行けば、苦労も何もなく次のカットが自然に出てきて、いつかラストシーンまで辿《たど》りつく。ただし完成された流れであるだけに、一カ所でも飛んだり、話の順番を入れ替えたりすると、とたんに頭が混乱して収拾がつかなくなってしまう。カット割りの細かい映画を二十の絵にまとめて話すのは、意外に難しい作業で、ぼくの方もなめらかにしゃべれるようになるまでには、まる二日たっぷりかかった。
三日目の三月一日の、十二時の昼食の後が第一回の封切りである。
内勤の特別職員は、食卓の真中に白米の粥を入れたアルミ缶をおき、自分でほしいだけ、食器に盛って喰べるようになっている。これは俘虜の境遇では、他では想像もできない贅沢であって、その贅沢に裏打ちされてこそ文化的な作業に心おきなく従うことができる気持になれた。
三月一日の職員食堂は何となく浮きたった気分であった。ぼくだけがさすがに緊張して、軽く一杯しか、粥が喰べられない。
演目の中身については、まだ春日通訳にも話していないので、軍医や事務職の人々の期待は高まっていた。食事が終ると、開演をうながす拍手が自然に起った。
事務室の手伝いをやっている軽症の患者が正面の演壇の上に、木の香も新しい紙芝居の台を置いた。
その日の朝からぼくにも内勤事務職員用の縦縞の木綿の背広が支給された。将校服でも着せられたような誇らかな気分である。全員の拍手の前で深々と一礼した。
「只今より、蒙古共和国、国立アムラルト劇場第一回の公演を開演します。昭和九年度キネマ旬報ベストテン第一位、フランス、ヴァンダル・ドラック会社超特作、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督作品、アルベール・プレジャン主演、商船テナシチイー!」
最後をたっぷりひっぱって強調しながら、内心ではかなり心配で皆の反応を窺っていた。
剣戟や西部劇、人情物を期待されていたらと、がっかりする顔も予想していたのだが、一人もそんな人は居らず、誰の目にも、どんなものが始まるのだろうと灼けつくような好奇心が見えた。
紙芝居の前面には布の幕がかかっている。それを片はしにひくと、タイトルが出てきた。港の遠景に、汽船が一艘《いつそう》停泊している。そのタイトルに画伯は心憎いまでの仕掛をしてくれていた。タイトルが、漢字横書きで『商船忍耐号』と書いてあり、その下に、テナシチイと片仮名がふってある。このタイトルを昨日の夜見るまでは、ぼくでさえ、テナシチイが忍耐だということを忘れてしまっていた。
劇の開幕前に、芝居でも映画でも、一つの名文句が入る。ラブレエの警句で
『運命は 従うものを 潮にのせ
逆らうものを 曳いて行く』
というのである。このときも開口一番、音吐朗々と
「うんーめいはー」
と抑揚をつけてやった。
これは当った。全員が拍手で応《こた》えてくれた。後に、病院中のはやり言葉になり、患者たちが廊下や、部屋の中で、しきりにぼくの口まねして
「したーがうー ものをー」
とやるほどになった。この言葉は口当りがいいだけでなく、俘虜たちの境遇に、どこか共感するものがあったのだろう。
物語は港の小さな酒場の寡婦《かふ》コルジエの店へ、カナダへ移民する船に乗るために、二人の青年が入って来るところから始まる。
軍医や内勤者たちの学歴は高い。中には蒙古共和国の近くまで学術探険に来て抑留された教授もいた。日本にいたときこの映画を見た人も、四、五人はいたようだ。
戦争が始まるとすぐ、国民精神総動員が唱えられ、猛烈な思想統制が行われたが、学歴の高い人ほど、そういうものへの反撥があり、外国文化への憧れが強かった。それにぼくの内心にある、都会の真中で生きてきた学生は只の兵隊とは違うのだという単純な見栄が、ぴったり合った。
途中でこの病院の蒙古共和国側の代表者で、北の宗主国から派遣された中年の女性の軍医、アレクセイナ少佐が、ゼンナー看護婦長や、事務長のジャムヤンダ中尉をつれて、何事が起ったのかと覗きにきた。ぼくの熱演に、そのまま後ろの席にそっと坐った。中止どころか、熱心に見ている。ぼくは体中に安心が拡がってきた。
彼女らにも木枠の中の絵と、ぼくの身ぶりを交えた会話で、ある程度、話の内容は理解できるらしい。やがて一緒に笑い、一緒に感心しだした。そして間には
「キノ」「キノ」
とお互いに頷《うなず》きあった。キノとは映画という意味で、もしかすると女院長の祖国でも、この映画が公開されたのかもしれなかった。終るとアレクセイナ院長は立ち上って盛大に拍手をしただけでなく、わざわざぼくのところまでやってきて、肩を叩きながら
「オーチン・ハラショ」
と褒《ほ》めてくれた。ぼくはこれで紙芝居が病院の仕事として公認を受けたらしいことが分った。嬉しかった。アレクセイナ少佐は何やらしきりに春日通訳に話している。やはりそうだった。通訳が自分のことのように喜んで伝えてくれた。
「これを職員だけでなく、病院の患者全体に見せて回るようにしなさい……と院長はいっている」
春日通訳が最初に企画したように、事態は自然に進行していた。
第一回の公演が終ると、忽ち病院中に、商船テナシチイの名が拡がった。大部分が農村からの召集兵士の集団であるから、本来は耳になじまない言葉のはずなのに、大河内伝次郎の丹下左膳ぐらいに、誰でも親しみのあるタイトルになった。全員が各人の病室で、巡回公演の来るのを待ちかねるようになった。ぼくにあたえられたノルムは一日四回だった。午前中二回、午後二回、一時間四十分をしゃべりつづけるのは、かなりきびしかったが、酷寒の雪原での労働のことを思えば、問題にならないありがたい仕事だった。演目は一週に一本替えることになっているので、その間に次回の絵を作り演出の準備をした。
病室は三十室あった。もともとは六十人収容の設備に、そのころは五百人以上の患者が居り、廊下から倉庫まで人がひしめいていた。一室は平均二十人、どの部屋でも、体を重ねるようにして寝たきりの患者が、真剣な目で、画面を見つめ耳を傾けてくれた。
二、三日回っているうち、面白い現象が生れた。自分で歩くことのできる軽症の患者が、ぼくの公演について回り、舞台を担いでくれたり、設定場所を作ってくれたりしながら、ついでに何度も同じ物を聞いて行くのである。いいところで拍手をし、掛声をかけてくれる。廊下を歩いているとき、その一人に聞いてみたら、話の筋は分っていても、何度きいても、面白いというのである。
最初の一本は自分の思い通りのことをさせてもらったから、二本目は大衆向けに『一本刀土俵入り』を選定した。続いて姿三四郎、駅馬車、瞼の母と、東西の名作が、一週一本ずつ順調に公開され、ぼくの生活もまた、好調そのものだった。
四月に入って雪が少くなるころ、この国では木の芽どきに当るのか、四十すぎの独身女性のアレクセイナ少佐の機嫌が急にひどく悪くなった時期があった。折あしく、院長官舎の水道パイプがつまり、そのヒステリーが頂点に達し、軍医連中もとばっちりを怖れてかなり気を使って応対していた。ところが十キロ離れた首都から、たくましい体付きのパイプの修理工がやってきた。宗主国の人間で、すぐ院長と一緒に官舎へ入って行ったが、そのままカーテンをしめきって、丸三日間出て来なかった。その間工事の気配どころか、食事の注文さえもなかった。
四日目に出て来た修理工は何の工事もせずに首都へ戻り、一日おいて荷物を持ってきて院長の官舎に住みこんでしまった。それ以後院長のヒステリーはおさまり、同時に排水設備の専門工の常住で、他のパイプ関係のトラブルも無くなり、病院の中はずっと明るくなった。
ぼくたち勤務員は、これを、二つのパイプのつまりが同時に直って、まことにお目出たいことだと、冗談をいって笑いあった。