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黒パン俘虜記4-1
日期:2018-10-26 23:18  点击:272
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 一月《ひとつき》に三回は帰還の新しい情報が、今度こそは本当だという註釈をつけて、真剣にささやかれ、幾らもたたないうちに自然に消えていった。そのたびに失望は濃くなり、もう絶対に欺《だま》されないぞと俘虜たちは固く自分に言い聞かせる。だがまたどこからか噂が伝わってくると、お互いに夢中になってそのことを語りあった。
 表面は必ず否定して、話に水を差す役回りを受持つ人も何人か出てきた。
 実はそういう人こそ、単純に賛成して喜ぶ人より、余計に噂を信じていた。憎まれ役を承知で皆の前で否定してみせたのだから、以前に信じきっていて、肩すかしを喰ったときのように、今度だけは、自分の説がうっちゃられてほしい。自分は昔からくじに外れ、予想が当らず、運が弱い男なのだから……そういう願いで、真顔で帰還説を打ち消しているのだった。
 吉村隊では労働が他より三倍もきびしいだけに、帰還の情報も、よそよりは何倍も沢山発生し、消えていった。
 これまで楽な病院勤務をしていたぼくが、悪名高いこの収容所へ運ばれてきたのは、不幸中の幸いといおうか、五月の終りだった。
 北の緯度の高いこの国でも、やっと雪が消えて、生きていくのに一番楽な季節が始まろうとしていた。おかげでぼくは、全蒙古共和国の収容所の中では最も苛烈《かれつ》で陰惨であるといわれたこの収容所の生活を、季節としては楽な一時期に送ることができた。それでも、毎日が肝《きも》の冷えるような思いの連続で今日もよく無事だったと、夜眠るときには、必ず改めて考える生活であった。
 その楽な季節も、春、夏、秋と合せて三カ月しかない。夢中になって作業定量をこなしているうちに、三カ月がすぎてしまっていた。
 誰もが、冬場に柱につながれ、凍傷で死んで行く前に、この収容所を出て日本への帰りの旅に出発したいと、あせりに似た思いで考えていた。
 蒙古共和国の冬は九月の初めには気配を見せる。三度目の怖しい冬が目の前に迫っている。そのころのある朝、ぼくはまた、明け方には必ず起る叫び声に目をさまされた。
 ほんのひとときであるが、胸が少し痛む。
 しかし他人より自分が大事。寝返りうって、音を背中にするといくらかでも響きが小さくなる。無理に眠ろうと努めた。
 本日の作業定量未遂による犠牲者は二人だった。ここは他の収容所でも、あまり働きのよくない人々が、自然の吹き溜りのように集められてくる。ある程度体格の面でも選ばれた若い兵隊たちの労働力より、予定捕獲人員の足りない分を、占領軍によって無差別に一般市民の中から掻《か》き集められた、居留民団の人たちの方が、年齢も高く作業能力も低いのは当然で、今日の二人も、四十代にかかった居留民団の人たちであるとのことだった。
 正門のそばにある電柱に、襦袢、袴下だけの姿で、後ろ手にくくられて終夜立たされる。処罰は、夕食後の二時間の特別作業の後で十時から十一時過ぎに始まる。ぼくが来たのは、夏場のことなのでこの処罰での直接の凍死者は出なかったが、それでも明け方の叫び声はいつも悲痛にひびいてきた。
 夏でも北の国の明け方は寒い。薄い木綿の襦袢、袴下だけで立っているのは辛く、全身を動かして寒さから逃れようとする。やがてそれだけでは耐えられなくなる。父や母、兄妹の名を叫び、故郷の妻子に、最後の救いを求める。その叫び声が、いつのまにか『暁に祈る』という、兵隊としては精一杯しゃれたつもりの言葉で表現された、悲しいジョークだった。
 朝から夜中までの労働の疲れで、死んだように寝息もたてずに眠っている人々の深い眠りの中へ、叫び声は容赦なく入ってくる。
 数日後の昼の作業中、この悲鳴のことを隣りの兵隊に話しかけたら、もう一年以上もここにいる先輩は咎《とが》めるようにいった。
「冬などはあんなもんじゃーねえな。生命の終るときの響きだ。寝ていてもこちとらの脳天に突き抜けるよ」
 厚い手套《てとう》をしていても、縫い目の綻《ほころ》びから入る寒気で凍傷にかかり、紫色に腫れて腐って行く。白い木綿の布一枚でほうり出されることは、死刑以上の残酷な処罰だった。
 作業の手を少しも休めずにそういう兵士の言葉に、まだ本物を見てないぼくは背筋まで慄然《りつぜん》としてきた。いつまでも、この収容所にいてはいけない。いつかあの処刑者の中に入れられる。そう思っても、まだどうすることもできない。
 新しい入所者がやってくると、いつも全員を並べて収容所長の吉村少佐が得意そうに訓示する。
「ここは地獄の一丁目だ。ただし、二丁目、三丁目のない行き止まりだ」
 言葉のように、もうどこへも行きようのないどん詰りの世界であった。
 ぼくは軍の組織に捕えられる前、映画のシナリオ・ライターになりたかった。日本でまだ封切られていない、フランス映画の脚本を誌上紹介で幾つか読む機会があった。その中に、ジャン・ギャバンのフランス軍兵士が、エーリッヒ・フォン・シュトロハイムが収容所長をしている、ドイツ軍の俘虜《ふりよ》収容所を、脱走する筋の映画があった。
 途中美しい戦争未亡人との恋などもあり、雪のアルプスを徒歩で越える。追いかけて来た兵隊が、脱走者が国境を越えてスイス領に入ったのを知ると、鉄砲を空に向けて射《う》つ。
 シナリオで読んだ限りでは、ひどく、いきなラスト・シーンだった。
 現実はとてもそうはいかない。この大砂漠の真中では、国境に辿《たど》りつける可能性は無に等しい。せめて何とか帰還の日が来るまで、処罰の番が訪れないようにと願うだけだった。
 その日の泣き声はばかに大きかったし、ぼくもまた夕食後の作業の手順が悪く、かなりおくれてひやりとしたので、身につまされて余計眠れなくなってしまった。
 この処罰を命ずるのは、俘虜たちの管理に当る蒙古共和国側ではなく、さらにその後ろで国政全体に睨みを利かしている北の宗主国の役人でもない。また大概の収容所で日本側の組織の長になっている、旧日本軍の将校でもない。
 ここへ来る前に、一年と少しいた川沿いの収容所では、人々の生殺与奪の権を、陸軍刑務所受刑中に抑留された関西のやくざ出身の三人組が握っていた。かなり似た過程で、ここでは元満洲国内で兇悪ともいってよい力で、現地人の締めつけをやっていた、池田という憲兵曹長が全員を掌握していた。帝王であり、絶対者であり、処罰の命令の決定者であった。
 池田曹長が吉村少佐である。吉村は妻の実家の姓で、祖国へ帰ったら、入婿してなるはずの苗字だそうで、別に矛盾はない。少佐の方も、勿論本物ではないが、多少の根拠はあった。収容所内の隊員の掌握と作業督励の能力を買われて、蒙古共和国軍の収容所長ゴンボジャップ大尉から特別に任じられた階級だと称して、皆を納得させている。そしてここでは蒙古共和国軍の大尉が、日本人を少佐に任命できるかどうかという疑問は一回も論議されたことはない。あまりに酷《ひど》い肉体の疲労は、頭脳の方もいつも霞がかかったような、しまりの悪いものにしてしまう。多分脳細胞を動かすエネルギーが足りないからだろう。
 ぼくにとっては、ここは二度めの収容所だった。いずれの所でも、人間が集団で暮しだすと、必ず頂点の王と、その下で王を守るということで、贅沢な食事を保証されている少数の貴族団と、全く何の権利も持たないで黙々と労働させられるだけの一般の人間との、三つの階層に分れる。
 動物園の猿山と同じ秩序だ。
 これが大日本帝国の中でなら、国家の本来の体質からも、納得できないことではないが、そういうものの否定から出発したはずの、プロレタリヤの国の中でのことだから、何だかひどく欺《だま》された感じがした。
 悲鳴が耳に入ったときから一睡もできないうちに、とうとう朝飯前の作業時間に入ってしまった。
 棒を持った吉村隊長の親衛隊の、もと相撲取りや、やくざの兵士たちが、眠りこけている兵士を大声でどなり、無差別に殴りつけて表へ追い出す。
「日本は戦争に負けたんだ。いつまでもぶったるんで眠っているなんて、ふてえ料簡さらすな」

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