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黒パン俘虜記5-1
日期:2018-10-26 23:26  点击:317
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 ぼくはその日、首都にある、外国人専用の監獄にほうりこまれていたが、それでもサイレンの音はよく聞こえた。
 時間は午後三時ごろであった。
 後で旅の途中で聞いたのだが、このサイレンは、首都にある、すべての収容所や作業場で、同時にはっきり聞こえるように鳴らされたらしい。
 とたんにどこの収容所でも一斉に作業が中止になった。煉瓦工場のモーターは止まり、伐採の森林では、ひきかけの鋸をその場に置かされ、靴工場では、針も糸も膝の前に置いて立ち上らされた。全員が直ちに各自の私物を持って外に集合を命じられた。皆、毛布や、飯盒の僅かの荷物を持って、理由が分らないままに整列した。五列の列が揃うと警備の兵士にひきいられて、収容所の門を出た。各所からの行列が一斉に町の東側にある、競馬場と呼ばれる広場に向った。それでも何の説明もなかった。
 この国では、メーデーの行事の一つとして十二歳以下の少年、少女たちによって、往復百キロの荒野を走り抜ける、競馬が行われる。ジンギス汗時代からの伝統を持ったレースだが、競馬場といわれるのは、スタートとゴールの地点になる広場で、表彰台と見物席などがある。いわばそこは、町の外れでもあり、無限に続くゴビの荒野への出口でもあった。
 突然理由も分らないままに一カ所に集められた兵隊や民団の抑留者たちの中には、この国へ入って丸二年め、ここで初めて自分たちの集団以外の日本人の姿を見た者が多い。
 他の集団に同部隊の戦友を発見して声をかけようとして、蒙古共和国の警戒兵に神経質な声でどなられる者もいた。
 ありったけの物を着るように指示されて、分厚く着ている部隊もあったし、作業場から収容所へ私物を取りに帰るひまもなく、そのまま追いたてられた、外套もない気の毒な連中もあった。
 ぼくは蒙古共和国政府の黒い車で、牢獄から直接、この広場に連れてこられた。身分は脱走犯の囚人だったが、かねて顔見知りの、この国の特務将校が、今回に限りぼくの罪をうやむやにしてくれることになっていた。後ろの席に縄でくくられ、兵士二人に挟まれるようにして、人々が各地から続々と集まってくるのを、何時間も車内で見させられていた。
 特務は助手席から後ろを振返りながら、ぼくにいった。
「ここに一万六千人の兵隊がいる。二万人がこの国へ入った。二割の四千人が死んだ。これは、全シベリヤの収容所と比べても異常に高い死亡率だ。本国の査察官が驚いて、この国の抑留者だけを早急に全員帰すことにした」
 本国とは北の方にある大国のことだ。その仲間を見送るためにここへ連れてこられて、囚人のぼくだけが、また首都の牢獄に戻されるのだったら、泣いても泣ききれない辛さだったろうが、昨日脱走で捕まってからのこの特務の中尉の口ぶりから察すると、そんなことはなさそうである。
「どうして今日の昼まで皆に知らせなかったのですか」
 幾分気が楽であったので、囚人の身でありながら、勇気を出してそう質問した。
「以前、おまえたちが来る前に、ドイツ人がこの国で働いていたのを知ってるか」
 ぼくらがやってくるのと入れ代りに、ドイツの軍人の俘虜たちが、役務を終えて帰還のためこの国から出て行った。入国当時そのすれ違いの行列を羨ましい思いで見送った記憶がある。
「はい」
「その連中は、機械のボルトを抜いたり、作業用具を巧妙にこわしたりして、使えなくしてから出て行った。出国して何日かたって判ったときは、私たちの国の者では、それを直すことができずかなりあわてた。本国のゲ・ペ・ウからもひどく叱られた。それで今度は当日のその時間になるまで知らせないことにした。今でも、ここに集まってくる者たちは大部分が、何で急に集められたか知らない。はっきり知ってるのは、おまえだけだ」
 今日の特務中尉は、やはり罪人のぼくにひどく寛大であった。
「四千人も死んだことについて、私ら蒙古共和国政府にすべての責任を押しつけられても困るな。作業の量も食糧も国連の示す規定通りであった。殺された者のうちの大部分は、日本人同士がお互いの利害で殺し合ったのだ。その事情はおまえにはよく分ってるはずだ」
「ええ分っています。どこで聞かれてもそう答えますよ。日本人俘虜は、皆、同じ抑留者の仲間のボスに殺されたんですと」
 語調にもおもねる感じがないではなかったが、気持の上では、ぼくはそういいきってもおかしくない思いだった。
 特務は妙にしんみりとしていた。
「私としては、せめてこの一万六千人だけは全員、無事に帰ってほしい。これ以上仲間がいがみ合っての殺しが起らないように願うよ。みんな二年も苦しい作業を耐えてきたのだからな」
 ぼくはふとこのとき異常な事実に気がついた。蒙古共和国の人が日本語を話すときは、いくら上手な人でも、ハ行が必ずカ行になる。カタラク(働く)キルメシ(昼飯)などで、この特務も最初、あの川っぷちの収容所での、日本人スパイとの間の会話では、へたな分り難い、訛りの強い日本語でたどたどしく話をした。だからこそ、ぼくが通訳として呼ばれたのだ。
 しかし今語る日本語は、ごく自然の当り前の日本語であった。びっくりしたように見ているぼくに、少し淋しそうにいった。
「おまえは日本に帰れる。私は羨ましい」
 それから兵士に命じて縄をとかせた。
 だんだん薄暗くなってくる競馬場には、数えきれないぐらいのトラックが並んでやってきた。この国にある車を全部動員したようだ。あたりが急に騒々しくなった。蒙古の兵士たちは、そこらにいる者を集めては、例のように五人ずつの列を作り、それが十になるまで数えて区切りをつける。これまでの収容所の区別や、団体の区切りなどを一切無視して、車に次々と五十人ずつ押しこんで行く。
 あたりがすっかり暗くなった。兵士の持っている灯火だけが、人間の顔や姿を照らしだして、車に乗せる作業をすすめている。車は五十人をきっちり乗せると、出発の場所まで移動してそこで一列になって待機していた。
 特務がぼくの肩をたたいていった。
「行くんだ。今ならどこの列に入っても分らない。皆、ばらばらになって乗りこんでいる。実は私がわざわざそうさせた。同じ車に乗ると、恨みのある者がこの機会に仇討ちをする。殺し合いになる。つまらないことだ」
「ジャーメンド中尉」
 ぼくは何とか自分の感謝の気持を伝えたかった。この人のおかげで、二度生命を助けられた。その上、この突然の帰国に対して、作業服だけで入牢したぼくに、古物だが、外套と毛布に飯盒まで持たしてくれた。いくら礼をいっても足りないぐらいだ。もしぼくが今急に感じたように、ノモンハンの捕虜の出身者だとしたら、故国への伝言を持って行ってやりたかった。
 しかし特務は、蒙古式に掌の上をぼくに向って振り、早く行けと合図をしただけだ。ぼくは暗闇の中を駆けだして、蒙古兵の灯火に照らされ乗車の順番を待っている列に割りこんだ。誰一人よそから飛びこんできたぼくに気づいた者はいなかった。
 何百台かのトラックに五十人ずつきっちり乗せおえると、夜の町を背に、荒野に向って走り出した。四時間の間は、全く停らなかった。前後のはしが見えないほどの、長い車灯の列が続く。
 首都のウランバートル市を離れれば、後は地平まで見通せるような平らな土地が、どこまでも続くゴビの砂漠だった。
 トラックは、前の車の尾灯を頼りに、精一杯のスピードを出して、石ころだらけの道を走り続けて行く。
 一台に五十人だから、全員が立って乗っても窮屈だ。材木を縦に積んでも落ちないようにするのと同じ仕掛で、胸のところに一回りロープを巻いて俘虜たちがこぼれないようにしてあった。
 すべてFORDのマークの入った二トントラックで、これは大戦の末期、アメリカと、この国の北にある宗主国とが、対独・対日の戦争で、共同戦線を張っていたときに、アメリカから協力国への援助物資として送られたものである。この国にはトラックはこの車しかない。がっしりした車体で、ふちの囲いもやや高目にできているが、一台五十人は多い。一旦乗せられると、そのとき顔が向いた形のまま身動きができない。
 十月にもう近い。夏はもちろん、秋も終っていた。夜間は零度を割る。外側にいるものは、もろに風を受けて体が凍えてくる。体感温度は風速で下るから、これまで何とか凍傷にだけはならないように、細心の注意を払っていた人々も、こんなところで、思いがけなくかかる心配が出てきた。手袋で鼻や耳を押え、防寒服の垂れを下し、首にボロ布を巻いたりしだした。
 その点では、中の方に押しこまれている者は人垣に周囲をぴったり囲まれて自然の外套になっていて、かなり楽であったが、困ったことが起きた。走り出してもう三時間や、四時間はたったというのに、一向停る気配がない。小便がしたくなった。真中に押しこまれていたぼくも、どうにも耐えられないぐらいになった。
 周囲でも皆同じようだ。しかしこの狭い空間では入れ代ることはもちろん、体を動かすことも不可能だ。外側にいる人間は、胸の前に回してあるロープを手でつかみ、やや腰を前に突き出して、隣りへ飛沫が行かないように注意すれば、何とか用が足せた。
 中にいたらどうにもならない。もしうっかりズボンの中に洩らしたら、最初は温かくても車を下りて冷たい空気に当れば、下着からズボンまで凍ってしまう。皮膚にはりついて、必ず凍傷にやられる。
 四時間はたっぷりすぎたころ、やっと第一回の停車、小休止があった。車と車は二十メートルぐらいずつ離れて止まり、全員が一斉に下りた。
「助かった!」
 誰もが下りるとすぐ、地面に向って放尿した。死にそうな思いで耐えていたから、本当に嬉しかった。既に夜はおそい。冷えこみがきびしい。一杯になった下腹が開放されると、急に腹がすいてきた。三時からの慌《あわただ》しい移動で、誰も夕食を喰べていないのだ。まだ食事の配給の気配はなかった。
 

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