2
噂の中で、一番全員を緊張させたのは、港には思想調査の関所があって、そこで態度や経歴を調査され、日本に帰すのが不適格と判断された者は、容赦なくはねられてシベリヤへ送り返されているらしいという説であった。
しかもいざ調査してみると、あまりにも不適格者が多くて迎えにやって来た日本の船も、定員の半分ものせないですごすごと戻って行く。関所には人があふれてもう収容しきれない。それで各地からの列車が、ここから港までの各駅ごとに溜ってしまっている。港の人間が減るまでは何日も待避を続け、前の方から少しずつ動いて行く。何集団も詰まっているから、かなりかかるらしい。へたすると祖国の土を踏むのは、正月を越すかもしれない。想像もしていなかったきびしい情報であった。
そこでまた、各車それぞれの情報マンの活躍が、活発になってきた。もっとも熱心で、いい情報を持ってくるのは、ウクライナの鼠説で皆を感心させた、例の能弁の兵隊だった。
二日目の夕方の粉の粥の食事を、車の中でぼくらが喰べかけたとき、彼は話しだした。
「港へ行って、情勢を見て戻ってきたロシヤ人がいてな、それが蒙古の警戒兵に小声で話をしているのを、十二号車にいる有名な通訳さんがきいたパリパリの確度甲の情報がある。聞きたいかね」
「頼む。じらさんでいってくれ」
「おれたちは帰れるのか、帰れないのか」
全員の関心が集中したと知って、彼はおもむろに語りだした。
「おれは今日まで知らんかったのだが、左翼運動をしている連中の間には、君が代のように大事にされている歌があるらしい。港ではまずそれを大声で唱わされる。多少の音痴は許されるらしいが、三番までに文句の間違いが三回以上あると、ストップして後戻りらしい」
雑談がぴたりととまった。一人が真剣な声できいた。
「それ、何という歌だ」
「うん、それが赤旗の歌というんだそうだ。名は判明したが、歌詞を知らん。どの列車集団でも誰か一人ぐらい知ってる者がおらんかと、きいて回ってるらしい。だがまだ見つからんそうだよ。そんな歌をうっかり唱ったら、昔はそれだけで懲役に行かなならんからな。インテリー補充兵には、元左翼が必ず二、三人いて、どうも中には知ってる者がいるらしいが、そいつはまた上官に殴られると思うてか、知らんと、固く口をとざしているそうだ」
どこからか発言があった。
「そいつは知らんじゃなか。港へ着いたら、自分だけ一人唱って先に帰るつもりじゃなかとか」
「うん、そうかもしれん」「多分そうじゃぞい」
あちこちからその説に同調する意見が出た。
「誰か知らんかね。既往の国賊の罪はもう無効になっているはずだ。敗戦以来世の中変ったんだしな。今となっては叩きも責めもしない。日本へ帰るのが先決だ。知っておったら若気のあやまちと割りきり、恥をしのんで、すすんでいうてくれんか」
お互いに顔を見合せた。
しばらくの探り合うような沈黙があった。ふと意外なところから声があった。
「自分は知っとりますが、……でも左翼じゃありません。友達にすすめられて歌だけ習いましたのです」
山本鹿之介が顔を潰されて死んでしまった後の員数合せに、最後尾の車輛からひっぱってこられた、三十すぎの補充の二等兵の声であった。
能弁な兵隊はほっとしていった。
「おうおまえ知っとったのか。理由などいわんでいい。過去の罪は問わない。三番まで文句を知ってるのか」
「はい全部そらんじています」
「それはいいぞ。みんなに教えてやってくれんか」
いつのまにか、この発言の多い兵隊が、自然に車輛のリーダー格の世話役になっていた。
二人の間に身分上の関係はこの際ない。年からいったら、能弁の兵の方がずっと若くて、丁寧な言葉を使わなくてはいけないのだが、補充の二等兵で入ってきた最下級の兵士と現役兵との間では、どうしてもそれができない。いつも老補充兵の方がごく自然に下手に出てしゃべる。
「ただし皆さん」
と老補充兵はおそるおそるという感じで車内を見回した。
「何だね」
「みなさんは、紙、手帳類と、筆記具の一切を国境で取りあげられてきています。私がその文句をお教えしようとしたところで、どこかに書かなくては、とても覚えられるものではありません」
いつも侮蔑の対象でいじめられてばかりの最下級の身分の兵士としては、なかなか筋の通った意見をいった。あちこちで呟きが出た。
「そうだなあー。何かに書かんとな。歌の文句などそう簡単に覚えられるもんでねえ」
「さっきの話では大声で三番まで唱って、三カ所間違うと駄目だということだな」
「うん、こらかなわん。軍人勅諭の全部暗記がでけんで、とうとう下士候学校へも入れんかったようなトロい頭だ。えらいことになった。口うつしではとても無理だ」
言葉通り頭を抱えこんだ。他の者も同じで、どうしたらいいかと動揺が走った。
港へ着いてからなら、教育用の歌詞カードが小冊子でも支給されるだろうが、できれば早目に学習に入っておきたい。査問官の前に一人ずつ立たされてソラで唱わされるとなれば、一緒にただ大声張り上げているのとは違って、完全に暗記しておく必要がある。
「いい方法があったぞ」
一人が叫んだ。
「おう、どういう方法だ」
車内の全員がそちらを向いた。その男は、地方《しやば》では大工をやっていたという現役の三年兵だ。これまで寡黙であったが、動作は敏捷で頼りになりそうな男だった。彼は上衣の折り襟の内側の布の合せ目から、鋭く先の尖らせてある釘を抜いて示した。
「作業場で拾ってずっと持ってきた。釘は大工の生命だからな」
扉の所まで行き、ひきずって半分閉めると、出てきた内側に
「ここよ。タールが塗ってある。多分こういう風にやれば黒板の代りになる」
と、自分で黒いタールをひっかいて、すみの方に小さく『あかはたのうた』と書いて見せた。
拍手が起き歓声が湧いた。少し立場を失った能弁の兵隊がいった。
「いいかこの件は他車の連中には、軍極秘《ぐんごくひ》扱いにしよう。一人でも我が車に近づく者があったら、この扉を押しこんで隠してしまうんだ。何も奴らが先に帰る手伝いまでしてやることはないからな」
全員が声を上げて同意を示した。
補充の兵士は釘を受取ると、扉をぴったりしめて、充分な面を出した。上から三段の筋目をつけて、一、二、三、と最初に番号を振って書きだした。几帳面な性格らしい。字もしっかりした書体であった。
一、
高《たか》く立《た》て 赤旗《あかはた》を
そのもとに誓死《せいし》せん
漢字にはちゃんと振仮名をつけてある。最下級の身分でありながら、今ではもうそんなものをふっとばす威厳があった。みな少しでも早く覚えたい一心で、小声で口の中で呟きだした。
この車輛の殆どが軍隊経験者である。軍での学科試験に合格するのには、まずしゃにむに暗記して、それを大声でとなえればいい。語句の理解は問題とされない。誰もがその習慣を思い出して、早速、暗誦《あんしよう》を始めだした。
途中でふっと一人の男がきいた。
「それであんた節は分ってるのか」
「はい、節の方はあまり正確とはいえませんが大体は分っております。一節ずつゆっくりやりますから、ついてきてください」
念のため扉を両方しめさせて、盗聴を防いでから、堂々としたバリトンで唱いだした。ぼくは珍しいものを見るようにこの老補充兵を眺めた。この年で人の前で、てれもせず歌を唱える人は、キリスト教の牧師さんを除けば、普通の日本人では見たことがない。地方《しやば》で何をしていた人なのだろうか。牧師さんは共産主義とは無縁だろう。改めてその人の顔を見つめたが、見当もつかなかった。
彼はてれくさそうにいった。
「歌劇の仕事をやっていたことがあるんですよ」