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黒パン俘虜記7-4
日期:2018-10-26 23:33  点击:327
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 最後の法廷での人民裁判が始まった。対象は兵卒の犯罪だ。騒ぎたてるのは、相変らず周囲にいる民主聯盟の指導員だけで、地面に坐っている兵卒や民団の者は一向に気勢が上らなかった。最下級の身分にある兵卒どうしだ。何かやったところで殴りあったとか、パンの切り方を自分だけ厚くしたとか、程度が知れている。蒙古共和国の国内で、一つの収容所から他の収容所へ動いた経験が全くない人間だったら……これが大部分なのだが……二年間の労役生活で接触した人間の数は知れている。そのとき一時憎み合ったこともあったかもしれない。しかしここまできて何も告発までしなくてもという考えが強い。
 坐りこんだまま、お互いに黙って見合っているのへ、また回りから怒号がとぶ。
「きさまたちの民主意識はどうした」
「馬鹿たれー。ここまできて卑怯者になり下りたいのか」
「五十人を出せ。五十人に土下座させないと次からやってきた部隊を先にのせるぞ」
 それで、ぼくらは、また不安になってきた。
「第三から第二に戻された例は多いぞ。もし一人も出なかったら、全員第一まで戻されるぞ。また教育のやり直しだ」
 お互いに困惑した。女の査問員が手渡したらしい、調査書が舞台に持ち出された。
 指導員の代表が見ながらいった。
「ほらここにちゃんとあるじゃないか。百二十三号の中村一等兵そこに立って、平賀上等兵がおまえにした罪を大声でいえ」
 三日前汽車の所で三点もらおうと思って述べたことが逆目《うらめ》に出た。立ち上らされた中村一等兵はもう泣きそうな声で答えた。
「はあ、自分としてはもういいであります。恩も恨みも消えたであります」
 舞台上の指導員はがなりたてる。
「そんないい加減な態度でいいのか。蒙古人民共和国でもう二年働きたいのか」
「いえ、そ、そんな気持はありません。では告発します」
 結局入隊したとき、しょっ中ビンタを取られた話になった。こんなことをいい出したら、ここでは全員が被害者である。そして民団の人と、殴られっ放しで下が来なかった二十年三月十日の東京大空襲の日の召集の補充兵とを除けば、全員が加害者でもある。軍で戦っていたときは、ぼくだって合計すれば二十人ぐらいはひっぱたいている。
 ともかくこのソ連は形式的な数が、一切の物事の上に優先する。結局五十人を何とか出さなくては船に乗れないと分ってきた。
 さっき装備のしっかりした兵を乗せた船はもう桟橋を離れ、次の船が入れ代りに近づいてきた。あれに乗れるらしい。焦りに似たいらだちが湧いてきた。調査書に書かれた全員が呼び出され、土下座させられて、四十名を七名越したところでストップした。
 回りでは大声で叫ぶ。
「もういないのか」「誰かいないか」「民主主義のため犯罪の摘発を徹底的にせよ」
 怒号の渦で騒然となった。彼ら指導員もここで五十人の罪人が出ないと、吉村隊の定量未遂の兵のように何か困ったことが起るようであった。沖を見ると新しい船が四艘、水平線上に見えていた。カラ船は合せて六艘、一艘三千人として、一万八千人までは、今から出発できる。ここにいる全部が乗れるのだ。もうシベリヤへ送り返される者は出ないはずだ。下士官用第二法廷でも送り返しは一人も出なかった。
 ふとバリトンの補充兵がぼくの顔を見ていった。
「自分は最後の賭けをしてみますよ。実をいうと、自分は共産党員なのです。ここの指導員は駄目だが、自分は心の中では、共産主義の正しさを、今でも信じるものの一人です」
 ぼくは聞き返した。
「何するんだね。罪人の定量《ノルム》も後三人だ。五十人揃ったら乗船開始らしい。帰れば藤原歌劇団に戻って、椿姫や、リゴレットを唱う仕事が待っているんだろう」
「自分は昔から妙に意地っぱりのところがありましてね、一度何か思うと、ブレーキがきかないのです。浦和の高等学校を中退して、オペラの世界にとびこんだのもその衝動です」
「あんたは浦高かね」
 初めて知った経歴に、ぼくは畏怖《いふ》の念で彼を見た。
 浦高は第一高等学校に続く難しい学校だ。殆どが帝大へすすむ。卒業すれば超エリートとして、どんな進路も思うままだった。
 頭のできがぼくらと違う。もう意見はさしひかえた。
 全員がしーんとして最後の三人分の告発を誰かが出すのを待っている。指導員の怒号もさすがにくたびれたか、とぎれ勝ちになった。その空白の一瞬補充のおっさんは立ち上った。回りの仲間を見渡して言った。
「諸君は恥かしくないのか。まだまだ大物が三人残っている。そしてここにいる諸君の中で二千人以上の者が、その男の名を知っている。それでいて怖しくて口にも出せない。将校用法廷で吉村を弾劾し、土下座させ、謝罪させた君らが何でその名をいえないのだ」
 ぼろ服を着た最下級の存在の補充兵の口から出たとは思えない、まさに火を噴くような弁舌であった。一瞬呆気にとられた周囲の指導員が、突然、それに同調して一斉に
「そうだ、そうだ、いえ。その男の名をいえ」
 と絶叫しだした。
「後三人だ。今すぐその名をいえ」
 全員の注目が集まる。彼は大きな声でいった。
「常に暴力で我々を苦しめ、作業場に追いたて、パンを横取りした男の名は、赤穂の小政と、その仲間の二人のやくざ者だ」
 ぼくはできるだけ顔を見られないように下を向いた。隣りに坐っているからといって、関り合いにされては堪らない。それでいて、全員の反響は気になった。
 一人一人は弱くても、無名の人間は、集団になると強い。バスチーユ監獄だって婦人たちの力で破壊されたではないか。小政に苦しめられた者は確実に二千人以上いる。
 当然それに続く大反響が巻き起ると思った。しかし何の反響も起らない。法廷は却って静まり返ってしまった。
 砂地に坐った人の中で小政を知っている者は恐怖に押し黙るし、全く知らない人は、やはり無関心で、いぶかしそうにしている。
 回りの指導員は、この異常な沈黙に、自分らも黙ってしまった。
 最後の三人の名は出た。できればこれは人民の自発的な意志による弾劾という形で裁判をしめくくりたいらしかった。三人への非難が一斉に巻き起る形になったら、民主教育の成果はあったことになる。
 ところが奇妙なことが起った。一人の兵士が立ち上って
「いや、小政さんはそんな人じゃない」
 と弁解した。別な者が次々に立ち上った。
「そうだ、小政さんはそんな搾取や乱暴はしなかった。蒙古共和国政府の命令による所内での作業定量を実施させただけで、今の非難は怠け者の逆恨みだ」
 ぼくは顔を上げず、帽子を深くかぶり直してから、上の瞼が痛くなるほどに上目遣いをして発言者を見た。立った者すべてが小政の回りにいた三十人の親衛隊であった。この二年間贅沢に暮してきた連中で、いい体格をしていた。
「将校が支配する天皇制の遺産を率先破壊したのは小政さんだ。この国への最高の協力者のはずだ」
 一旦口火が切られると、元囚人仲間は勢いづいて、口々に小政を讃《たた》え出した。
 三十人と一人の対決になった。
「小政さんは、スターリン元帥閣下からレーニン勲章をもらって、労働英雄にされてもおかしくないほどの立派なお方だ。現に蒙古共和国を出るときは、チョイバルサン大統領閣下から感謝の手紙をもらっている」
 完全に補充兵は追いつめられた。意外な成り行きに、彼の顔が青ざめ、体が震えてきた。三十人の弁護団に口々にいいたてられては、返す言葉を挟む余地もなかった。指導員の代表は両方の言い分の対立に戸惑っていたが、やがてマイクでいった。
「双方とも坐りなさい。ここは査問のための法廷であって、私怨の晴らし場でない。そこの一人の兵隊が五十人の定量《ノルム》に合せるため、後三人の告発をした勇気には深い敬意を表し、同時に前の方の友人たちが、三人の労働英雄をかばった誠意にも感動した。当法廷はここに双方の勇気と誠意に免じて、これで特別に定員五十人の告発と謝罪が終ったことにしよう。諸君らは実に幸せだった。只今から乗船を開始する」
 どっと喚声が起った。すると今まで、ぼくらのことを、馬鹿者、乞食、帝国主義者、と罵ってばかり居た指導員たちが一斉に回りで拍手をした。
「お目出とう」「民主教育終了万歳」「日本へ帰還したら頑張ってくれよ」
 激励の言葉を聞きながら、ぼくら俘虜たちは坐ったままではあるが周辺の者と手を握り合い、肩を叩きあった。一人だけバリトンの補充兵は、悲痛な顔で黙りこくっていた。
 本当は乗船の時間がとっくにきているらしかった。それで裁判もはしょったようだ。
 船がいつまでもやってこなかったら、姑の嫁いびりのように、ねちねちとやられたろう。その意味では我々の集団は幸せであった。
 舞台の上にロシヤの高級将校が出てきた。
 裁判の終了を待っていたらしく、かなり時間を気にしていた。
 アコーディオンが鳴った。
 坐ったまま気をつけをさせられた。ロシヤ人将校は、マイクの前でお祝いのスピーチをのべた。
 通訳が一節ずつ区切っては伝える。
 要するに、立派に教育を終えた諸君らは、日本へ戻ったら、民主日本の建設とスターリン元帥のためしっかり働いてくれというだけのことである。
 みな真剣な顔で聞いているふりをし、大きく目だつようにうなずいたりした。
 紙片を形式的に読んだだけのスピーチは約五分で終り、最後に全員が立ち上って赤旗の歌を合唱し、スターリン元帥閣下万歳を三唱して、最後の審問と民主教育の卒業式は終った。
 誰もが当然ここから一度解散して天幕においてある毛布や飯盒、僅かの私物を取ってきてから、港へ向うのだと思った。しかし先頭から五列に並べると、そのまま桟橋の方へ歩かされ出した。我々の最後の僅かな荷物はあっさり捲《ま》き上げられるらしい。僅かな物だが、今となっては惜しくなってきた。しかし、抗議できる勇気のある者はいない。帰還と荷物とどちらが大事か。
 舞台で土下座していた兵は、このとき自分の仲間のいるところに無条件で戻された。告発した者とは、気まずい睨み合いだけで、幸いそれ以上にはならないようだ。
 大声で赤旗の歌を唱いながら、桟橋の方へ歩いて行く。
 長い蛇のような列がずっと続いた。
 桟橋の入口にロシヤ兵が何人かいて、五人ずつ数を当っている。二つで十人。三千人ずつ乗船させる。最初の乗船の三千人が船の腹に吸いこまれると行列が一旦止まった。
 船が岸壁に入れ代るまでには、最低三十分はかかる。二艘目からの残りの者は、五人の列の右はしだけが、当番になって、大急ぎで天幕へ戻り仲間の荷物を取ってくるのを許された。彼らは駆け出して天幕へ戻って行った。これまでまる二年ずっと身につけてきた毛布と飯盒の二つがないと、身辺はひどく心細かった。すぐに五人分の荷物を抱えて、また元の列に戻ってきた。その騒ぎの間にぼくは補充兵にいった。
「あんたは、少し後ろの方へ行った方がいいんじゃないかね」
「どうして」
「うっかり小政らと同じ船に乗り合せると厄介なことになるよ」
「ああそれなら計算してありますよ。彼らが乗る船とは、どうしても、間が一つ離れています。わざと後ろへ行く者はいません。みな早く帰りたいですからね」
「奴は執念深い男だよ」
 二艘目も乗り終えて、列はまたすすんだ。そこでまた一時間弱も待たされ、三艘目になり、それも終った。多分このあたりで、小政のいる列のあたりはもう船腹に入ってしまったはずだった。ぼくらは四艘目になりそうであった。
 まだ後ろに二艘ある。ぼくらの気持には余裕があった。船に乗りさえすれば、もう日本へ帰れる。やっと祖国に戻れるのだ。
 生きて帰れることがちょっと信じられない。
 順ぐりに列はすすんで行く。
 不思議な偶然だ。ぼくのすぐ後ろで、四艘目の乗船人員の遮断機が下りた。ともかく乗船が決ってほっとしたが、急に不安も起った。
 後ろは他貨車の見知らぬ兵だったが目の前に木の棒を下されて
「ちえーっ、ついてねえな」
 と声を出した。少し桟橋を歩き出していたバリトンの補充兵は駆け戻ると、そこに立っていた警戒兵に、後ろの男と交替してくれと頼んだ。それなら、確実の上に確実だ。小政たちが後ろの方の列にいることはあり得ない。
 しかし警戒兵は首を振って拒否し、うるさそうに追い払った。融通のきかないのが、この国の一つの特徴でもあった。仕方なく補充兵は戻ってきた。心配して待っていたぼくと二人は、駆け足で最後尾に追いついてタラップを昇った。
 ぼくは彼を勇気づけた。
「まあー万一にも一緒のことはないよ。心配するなよ」
 ぼくらが昇りきると、直ちに呼子笛が鳴って、タラップが上った。
 ぼくらは、白い大陸から離れて、正式に日本政府の管轄の中に入ったのだ。もう連れ戻されることもないし、苛酷な労働も、うるさい教育もない。
 タラップが上りきり鎖で固定されると、汽笛が鳴り、ウインチで碇《いかり》を巻き上げる音がした。
 やがて汽船は静かに動き出した。
 全員が甲板に立っていた。桟橋まで見送りに来た民主聯盟員がすぐ目の前にいる。ぼくは霧立のぼるをしきりに目で探したが見つからなかった。
 陸との間のつながりが切れた瞬間、甲板に立っていた全員が一斉に声を上げた。
「スターリンの大馬鹿野郎」
「天皇陛下万歳」
「大日本帝国万歳」
「ロシヤ人はみんなくたばっちまえ」
 目の前に立っている民主聯盟員に向って
「てめえらが日本へ戻ってきたら、一人残らず叩っ殺してやるからな」
 と叫ぶ者もいる。声は届かなかったのだろう。彼らは拍手し手を振り上げて機嫌よく見送っている。
 充分に民主教育を施し終って、祖国へ革命戦士を送りこんだという自信に迷いはないようだった。
 ぼくは甲板の鉄柵によりかかりながら、なだらかに続く白一色の丘のうねりを、いつまでもじっと見つめていた。
 二十歳から二十二歳の年が終るまで二年三カ月、自分の青春のエネルギーをすべて燃焼しつくしてきた土地であった。もう二度と絶対足を踏み入れたくない恐怖の土地でもある。それでも今となっては、ほんのちょっぴり懐かしくもあった。
 低い丘陵のつらなる白い大地は、みるまに遠ざかり、すぐに水平線の中に消えていった。

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