アメリカ嫌い
子どものころ、誰それが嫌いというと、そんなことをいうもんじゃない、誰とでも仲良く遊びなさいと、母親に、こっぴどく叱られた。それで、この文章も、親の目を気にしながら書いている。
はじめ、アメリカが嫌いになったのは、うんと幼いときで、当時、進駐軍と呼ばれていたアメリカ兵に、チューインガムやチョコレートを面白半分にばらまかれ、その屈辱が身にしみた。
欲しいくせに、それを口に運ぶことのできない哀しい子だった。
思想形成時代、韓国の民主化闘争やベトナム戦争をつぶさに見てきた。よくここまでやるな、というほどの陰謀と覇権主義に、アメリカにはほとほと愛想がつきるという気分にさせられる。
建国の歴史が先住民虐殺の歴史そのものであり、黒人に対する白人の差別と暴力主義は容易に克服されず、銃社会がしめすように、生命に対するこまやかさのきわめて乏しい国というのが、わたしのアメリカ認識だった。
アメリカスタイルの合理主義というのが、これまた曲者《くせもの》で、商業主義とつるんで、世界中を我がもの顔にのし歩く。
海外に出るようになって、この怪物の、他国への経済侵略、文化破壊のすさまじさに目を見張った。
日本も含めて、世界のおおかたの都市はアメリカナイズされてしまっている。
親の目がこわいのでアメリカ批判はこのへんに留《とど》めておくが、もしアメリカの文学、映画というものに出会っていなければ、わたしはアメリカを悪魔の住むとんでもない国だと思いこんでいただろう。
当たり前のことだが、アメリカにも思慮深い人、礼儀正しい人、心優しい人は数多くいる。
この国に、そのような政治の指導者が少ないのは我が国と同じで残念である。
(クリントンさんの行状が、あれこれ取り沙汰《ざた》されているが、確実にいえることは、女性に対して礼儀正しくふるまうことができなかったという点で、これは、かなりその人間の本質を表しているものと思われる)
ついでにいってしまうと、わたしのアメリカ嫌いは、日本の保守政治家嫌いとつながっている。
真の友は、時には相手にとって耳の痛いこともいうものだが、そんな事例を求めるのは、砂場でけし粒を探すほどむずかしい。
新しい政治の指導者になると判で押したように「アメリカ詣《もう》で」をくり返すが、一人の日本人として、そのたびに、ひどく恥ずかしい思いにさせられる。
もっともらしく「成果」を誇示すると、いっそう恥ずかしくて、ついついうつむいてしまいたくなるのだ。
政治家嫌いはいっこうに改まらない。
親がいっていた誰とも仲良くしなさいということばを実践するのは、けっこうむずかしい。
わたしはけんか早いし、好き嫌いも激しい。
親はその性格を見抜いて早々に釘《くぎ》をさしていたのだろう。さて、どうするか。