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アメリカ嫌い25
日期:2018-10-26 23:54  点击:341
    友愛という糸
 
 
 このエッセイの連載と、同じ日に載る吉沢久子さんの「老いじたく考」(「朝日新聞」家庭面)を、わたしは勝手に、きょうだい分と思っていて(吉沢さん、ごめんなさい)待ちかねるようにして愛読している。
「友情」(一九九八年十一月四日付)と題された文があり、「女の友情って、いいものね」という言葉に、うんうんとうなずいた。
 この言葉は「男と男の友情」も「女と男の友情」もいいもんですよ、といっているように、わたしには思えた。
 このごろ、若い人が、人づき合いの煩わしさを嫌って、孤立したり、そこそこのつき合いですます風潮があることを、なんだかもったいないな、と思っていたところだったので、吉沢さんの文章はうれしかった。
 わたしは親子のつながりも、恋人の仲も、夫婦の間も、師弟関係も、友愛、友情を軸に据えるのがいいと思っている。
 人と人の間を、無遠慮に土足で踏みこまないためにも、相手を尊重するためにも、そう考えた方がいいと思う。
 親であれ子であれ、相手が誰であれ、つながった人は、すべてかけがえのない人生の伴侶《はんりよ》だと思えば、人に対するいとしさは、おのずと湧く。
 
 妬《ねた》みや憎しみ、ときには殴ってやりたい、殺してやりたいと思うほどの感情を抱くのも人間であるが、一拍も二拍も置く修行をできるだけ積んで、人の関係を、ぬくいものにしておきたい。
 わたしは定時制高校を出たことを以前に書いたが、そこから大学にいくとき、無一文のわたしに当時の金で、六万円をくれた友人がいる。二つ年上だったが
「オレは大学を断念した。オレのかわりに勉強してきてくれ」
 と、ちょっとさびしい笑いを浮かべて、その友はいった。
 わたしは六万円を今も返していない。勝手ないい分だが、一生返さないで、それをいつまでも忘れないで生きていくつもりだ。
 
「物や金は一時の宝、人の心は一生の宝」
 誰がいい出した言葉か知らないが、わたしの母は、子どものわたしに、いつもそういっていた。
 笑いながら、ため息を吐いて
「そうはいうても、いっぺん金のなる木を持ってみたいなあ」
 ともいっていたから、親も、道理と欲との間で修行していたのであろう。
 でたらめいうな、と親にいう気はない。子が親に対して、いとしいというのはおかしいが、わたしはそんな母が、涙の出るほど、いとおしい。
 どんなに孤独を好む人でも、人は独りぼっちで生きていくことはできない。
 多くの人が、その自明のことを忘れる。欲を抱えこんで、さびしい人間になるな、と母はわたしに諭したのだろう。
 人とつながることは口でいうほど、たやすいことではない。汗も涙も、ときには血まで流さねばならない。それでも、そうしようとするのが人間で、生きるということは、たぶん、そのつながりをつくる営みなのであろう。

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