友愛という糸
このエッセイの連載と、同じ日に載る吉沢久子さんの「老いじたく考」(「朝日新聞」家庭面)を、わたしは勝手に、きょうだい分と思っていて(吉沢さん、ごめんなさい)待ちかねるようにして愛読している。
「友情」(一九九八年十一月四日付)と題された文があり、「女の友情って、いいものね」という言葉に、うんうんとうなずいた。
この言葉は「男と男の友情」も「女と男の友情」もいいもんですよ、といっているように、わたしには思えた。
このごろ、若い人が、人づき合いの煩わしさを嫌って、孤立したり、そこそこのつき合いですます風潮があることを、なんだかもったいないな、と思っていたところだったので、吉沢さんの文章はうれしかった。
わたしは親子のつながりも、恋人の仲も、夫婦の間も、師弟関係も、友愛、友情を軸に据えるのがいいと思っている。
人と人の間を、無遠慮に土足で踏みこまないためにも、相手を尊重するためにも、そう考えた方がいいと思う。
親であれ子であれ、相手が誰であれ、つながった人は、すべてかけがえのない人生の伴侶《はんりよ》だと思えば、人に対するいとしさは、おのずと湧く。
妬《ねた》みや憎しみ、ときには殴ってやりたい、殺してやりたいと思うほどの感情を抱くのも人間であるが、一拍も二拍も置く修行をできるだけ積んで、人の関係を、ぬくいものにしておきたい。
わたしは定時制高校を出たことを以前に書いたが、そこから大学にいくとき、無一文のわたしに当時の金で、六万円をくれた友人がいる。二つ年上だったが
「オレは大学を断念した。オレのかわりに勉強してきてくれ」
と、ちょっとさびしい笑いを浮かべて、その友はいった。
わたしは六万円を今も返していない。勝手ないい分だが、一生返さないで、それをいつまでも忘れないで生きていくつもりだ。
「物や金は一時の宝、人の心は一生の宝」
誰がいい出した言葉か知らないが、わたしの母は、子どものわたしに、いつもそういっていた。
笑いながら、ため息を吐いて
「そうはいうても、いっぺん金のなる木を持ってみたいなあ」
ともいっていたから、親も、道理と欲との間で修行していたのであろう。
でたらめいうな、と親にいう気はない。子が親に対して、いとしいというのはおかしいが、わたしはそんな母が、涙の出るほど、いとおしい。
どんなに孤独を好む人でも、人は独りぼっちで生きていくことはできない。
多くの人が、その自明のことを忘れる。欲を抱えこんで、さびしい人間になるな、と母はわたしに諭したのだろう。
人とつながることは口でいうほど、たやすいことではない。汗も涙も、ときには血まで流さねばならない。それでも、そうしようとするのが人間で、生きるということは、たぶん、そのつながりをつくる営みなのであろう。