残された詩
見知らぬ人から、本が送られてきた。
はさみこんであった紙片に、つぎのような文が書かれてあった。
——50年後、地方の図書館で「こんな本が出ていたのか」と、手にしてもらえることを願って作りました。
お心に届きますように念じつつ……。
発行者 西村郁
その本には、鶴見俊輔《つるみしゆんすけ》さんが序文を書いておられ、タイトルに、死刑囚いのちの三行詩『異空間の俳句たち』(海曜社=電話〇七四〇−二二−四一七六)とあった。
読んで、粛然とした。
処刑 明日
爪《つめ》切り揃《そろ》う
春の夜 卯一(二十七歳)
返り花
われを死囚と
子は知らず 初久(三十六歳)
秋天に
母を殺せし
手を透かす 祥月(三十一歳)
以前にも書いたが、わたしは個の暴力による死、集団の暴力による死、制度としての死、いずれも容認できない立場をとる者だ。
死刑制度の是非が問われている。目に入る限り、熟読するようにしている。
前々から気がついていたことだが、死刑を非とする人は、思考の末、そこに、たどり着いた結果に過ぎず、もっとも大事にしていることはいのちの尊厳がこの社会で守られているのかどうかということの吟味である。
子ども、「障害者・児」、老人等の人権が守られているのかどうか、安全保障の名を借りて、他国を武力で威嚇したり、特定の地域、人々に犠牲を強いていないかどうか、などということと深く結びついているのである。
この本の末尾にも、鑑賞と解説として、合評風の座談が載せられているが(この本への、わたしのたった一つの疑念は、ぎりぎりの死刑囚のことばを、このような形で評していいのかという思いが残るところだ)、その冒頭で、こまやかな心配りと公正さを示そうと努力している跡がうかがえる。
「死刑囚は死を目の前にして深く悟ることがあるでしょうが、その死刑囚に殺された人は突然にやってきた死ゆえに、考えるいとまもなくこの世を去ったわけで、おそらく恨みが深く残るでしょう」
というある人の忠告に対して、「この問いかけを胸の奥におきながら、座談を進行します」
と述べている。
人を殺したことも、そして、その人もまた殺されていくことも、かなしいことである。わたしたちは、そのかなしみに対して、ただただ祈るほかないのだが、それを踏まえて、いのちの有り様を深く考えていく人間でありたいと思う。
帰りゆく
母に冬日が
ついて行く 峯千(二十八歳)
つばくろよ
鳩《はと》よ雀《すずめ》よ
さようなら 菊生(四十三歳)