仕事について
わたしは遅筆、寡作の、もの書きで、あちこちに迷惑ばかりかけているが、ここ数カ月は、ほんとうによく仕事をした。自発的にそうなら立派なものだが、追い詰められてのことだから、少しも自慢にならない。
安定期の太宰治がそうだったらしいが、一日、四、五枚の原稿をみっちり書き、あとは晩酌というのが理想的なもの書きの生活で、いつもそれを目指すのだが、それさえ覚束無《おぼつかな》いありさまで(もっともわたしは炊事、洗濯、掃除は一人でこなさねばならず、天気の良い日は漁に出てしまうから、もの書き専業というわけにはいかないのである)、最後は追い詰められ、やむなく没頭するというありさまだ。
一日十五枚から二十枚近い原稿を毎日書かねばならないというここ一カ月ほどの生活は、わたしのもの書き生活の中でかつてなかったことで、心底くたびれ果てた。
もう、もの書き業ごめんという感じである。
いちばんこたえたことは、そんなハードな仕事をしていると、あちこちに義理を欠くことである。友人の大事な仕事に文をかくことも、ダイオキシン問題でがんばっている友人の応援依頼も、ごめんな、といって断らなくてはならないのがつらかった。
永六輔さんの父君の言だったか、義理を欠くほど仕事をとるなと戒められたという話は身にしみるのである。
仕事をしたくても、その仕事のない人が、こんにちたくさんいる。
先般、助手さんを募集したら、たった一名の採用に対して六百通に近い応募があった。
太平に見える世の中だが、内実はきわめてきびしいのだ。
応募された方の文章を読んでいて、つくづく感じたことがある。たいていの人は、自分を生かせられる仕事に就きたいと願っている。
食べていかねばならないから、ぜいたくはいっていられないけれど、ただ、たんに歯車の一部になるのは嫌だという気持ちが言外ににじみ出ている。
しごく当然のことだと思う。
自分が生かせられるということは、自分の仕事が社会のために役立っているという実感でもある。こんにちの企業の形態は、人を、ねじ釘《くぎ》一本にこそすれ、全人格的参加という側面がきわめて乏しい。
今、金融をはじめ企業はボロボロだが、その原因をバブル崩壊のせいだけにしてはならないと思う。
人を、そんなふうに使い、使い捨ててきたことを、根本的な欠陥だったと考えるべきではないか。
そこで、それを自分のことにしてみると、少々の仕事をして、くたびれ果てたと書く人間のよわさを思わざるを得ないのである。
わたしの身近の人々は、仕事につながる愚痴をいっさいこぼさない。
仕事がきついとき、いつも思う永六輔さん、ニュースキャスターの仕事をしながら、文を書き、人前で話をしている筑紫哲也さん、いつもカン詰め状態で仕事をしている本多勝一さん、鎌田慧《かまたさとし》さん、ベトナム・カンボジアを飛び歩いている石川文洋さん。見倣う人が多い。