2 教員ヤクザ足立先生
スモッグ警報が出ていたのに、つきぬけるような青空があった。秋が近いのかもしれない。こういう予報はいくらはずれてもだれも文句はいわない。
そんな日は子どもたちもなんとなくはしゃいでいるような感じである。一年四組の教室から、リズム打ちのれんしゅうをさせる小谷先生の声がきこえてくる。
「あわてなくたっていいのよ。できない人はできなくていいから、そのかわり、からだで調子をとってね」
小谷先生は夏休みを遊びくらしたせいか、なかなか子どもたちに寛大だ。
「だめだめ、人のまねは。人に合わそうとするから、おくれてきてへんになっちゃうのよ。できない人は首をふってるだけでもいいのよ。いい、はじめますよう、はい、タンタタ、タンタタ、タンタタタン……」
カスタネットのかん高い音が教室中にはねまわって、子どもたちも小谷先生も陽気である。
そのとき教室の戸があいて、足立先生の顔がにゅーうとつき出た。
「ノックくらいしてちょうだい」
小谷先生はちょっと腹を立てて、大きな声でいった。
「ノックくらいしてちょうだい」
といたずらな子どもたちが小谷先生のマネをした。みんな笑った。足立先生がアカンベェーをして笑い声がいっそう大きくなった。
足立先生は小谷先生の耳もとでなにか話していた。小谷先生の顔がちょっとくもった。
「じゃ後で」
「はい」と、小谷先生は返事をした。
出ていきしな足立先生は、小谷先生をからかっていった。
「できない人はできなくていいんです。そのかわりからだで調子をとってね」
小谷先生はまっ赤になった。
足立先生が行きかけると、子どもたちの声が後をおった。
「また、こいよ」
「またおいでよう」
たいへん人気があるんだなと小谷先生は思った。
「じゃま者がはいったゾ。さあ勉強勉強!」
小谷先生はちょっとくやしい思いでいった。カスタネットの音がまたひびきはじめた。
あいかわらず鉄三はすわっているだけでなにもしていない。
「鉄三ちゃん、先生といっしょにやってみる?」
小谷先生は鉄三のうしろにまわって、かれをだきかかえるようにして両手をとった。
「はい、タンタタ、タンタタ、タンタタタン、タンタタ、タン……」
鉄三はしかたなしにやっている。
「こんどは鉄三ちゃんひとりでやるのよ。いいこと」
小谷先生はみんなの前にいって指揮をした。鉄三はやっぱりやらない。小谷先生は小さなため息をついた。
鉄三のうしろにまわったとき、鉄三の髪がくさかった。鉄三ちゃん、頭くさいよといいかけて小谷先生はあわててことばを飲みこんだ。両親のいない鉄三に、それはいってはいけないことだ。
学校がひけてから、きょうは二つ用事ができたわ、と小谷先生は思った。
四時に学校を出た。
足立先生とふたりで、春川きみの家に向かった。春川きみは足立先生の受持ちで二年生、弟の諭《さとし》は一年生で、小谷先生の担当である。
ふたりの母親は二度めの家出で、足立先生は戻るみこみがないといった。
足立先生は、母親のいない場合の生活を、父親とよく話し合っていて、だいたいいけるだろうという見通しをつけていたということである。
きょう学校に電話があった。
春川きみが近所の子どもに勉強を教えて、十円二十円の月謝をとったというのである。まさか、といいかけて、足立先生は、いや、ありうる話かもしれないと思ったそうだ。
この校区はまずしい家庭が多いが、まずしい者だけの世界というものはない、見《み》栄《え》をはる家庭もあるし、物や金のうえで安心してくらそうとしている家庭もある。そういうところで、みにくい話がおこってくるのはとうぜんだし、子どもがそれをまねすることだってありうる、と足立先生はいった。
春川きみの家に近づくと、うどん屋とか飲み屋、焼肉ホルモン、お好み焼きなどの看板をつけた店が多くなった。
足立先生はつーっと路地へはいっていって、たいこ焼とかかれてあるのれんをくぐった。
子どもへのみやげにするつもりらしい。まっているあいだ、足立先生はその店の人としゃべりつづけていた。小谷先生は思った。このひとは学校ではあまりしゃべらないのに、外へ出るとよくしゃべる。へんな人だ。
〈空屋あります——すみれ文化住宅〉という木の看板のかけてあるところが、春川きみの家で、そこは廊下まで暗かった。
「なんでこんなハイカラな名まえをつけよるんやろな」
足立先生はあきれて、しばらくその前に立っていた。
小谷先生はくすっと笑った。
春川きみは明るい子だった。足立先生がはいっていくと、さっそくとびついて頭の上までよじのぼってきた。小谷先生があきれて見ていると、きみは肩ぐるまの姿勢のまま、足立先生のひたいをポンポンたたいて、ハゲハゲそこぬけえーと歌った。
「なんで先生がハゲやねん。男まえの先生にそんなこというたら、たいこ焼、やらへんで」
と足立先生がいったので、きみはやっとおりてきた。それでもまだ、両手を足立先生の首にまわして、
「小谷先生は足立先生の恋人か」
ときいた。
「そうや。学校にはないしょにしといてや」
と、足立先生はじょうだんをいった。
「そのかわり、たいこ焼三つやで」
と、春川きみはどこまでも明るい子だった。
「弟はどないしたんや」
「遊びにいってる、呼んでこようか」
どうしますと足立先生は、小谷先生に眼でたずねた。いない方がかえっていいでしょう、と小谷先生は、きみにきこえないようにこたえた。
たいこ焼をたべているきみに、足立先生はさりげなくたずねた。
「近所の子に勉強、教えてやったんか」
「うん」
きみは下を向いたままこたえた。
「絵も教えたったで」
足立先生のつぎの質問を、春川きみは先まわりしてこたえようとしていた。そのときのきみの眼はおとなの眼に近かった。
「絵はなに教えたってん」
きみの緊張をほぐすように、足立先生はのんびりした調子でたずねた。
「先生に教えてもろたデカルコマニィー」
デカルコマニィーは二つ折りにした画用紙に二、三色のえのぐを入れておしつけてからひらく、つまり合わせ絵の一種である。
「それやったら、きみでも教えられるなァ」
たいこ焼を足立先生もたべはじめた。小谷先生にもすすめたが小谷先生はたべなかった。
「近所の子いうてだれや」
「まっちゃんとしげちゃんとことえちゃん」
「お金はいくらもろたんや」
からっとした調子で足立先生はたずねたが、きみのからだはぴくんと動いた。
「二十円」
「二十円ずつか」
「うん」
そうか、といって、足立先生は遠いところを見るような眼つきになった。しばらくして、
「おとうちゃんはどうや」とたずねた。
「きのうはかえってきたけど、その前は三日かえらんかった」
「それ、どうして学校でいわなかった?」
足立先生はちょっときつい声を出した。
「………」
「おとうちゃん、お金いくらおいていったんや」
「五百円」
「ことえちゃんらに二十円もらったのはその日のことか」
きみは首をこっくりふった。
小谷先生は胸が痛くなった。
「きみちゃん」——と、名を呼んだ。
いつのまにか、きみはたいこ焼をたべるのをやめていた。
「きみ」
「ん」
「お金をもらうのはやめとくか」
足立先生はのんびりと思いやりをこめていった。
「うん」——きみはうなずいた。
小谷先生は胸がいっぱいになった。まだ母親にあまえているとしごろなのに、と思うと涙があふれそうになった。
かえり道、足立先生はおこったような顔をしていた。にぎやかな通りに出ると、いっそうけわしい表情になった。
「いっぱい飲んでいくか」
ふいに足立先生はいった。そういうなり小谷先生のつごうなどきかず、かってにさっさと一けんの居酒屋にはいっていった。
小谷先生はまだこれから鉄三の家へまわるつもりだったし、それに校内区で男の先生とふたりで酒を飲むということにうしろめたい気がしたので、とまどってしまった。
しかし、このまま別れてしまうのは気がかりである。たずねたいこともいっぱいあった。ついに小谷先生は相当の決心をして、その店へはいっていった。
足立先生の前のコップはもう半分からになっていた。小谷先生がよこにすわっても、知らん顔をしていた。せかせかと酒をからだの中に流しこんでいる。眼がなにかを考えていた。
「きみちゃんは、はじめから、あんなに明るいすなおな子だったんですか」
「いや」
ぶすっと足立先生は答えた。いっそうふきげんになっていくようだ。小谷先生は話しかけるのがこわいような気がした。子どもに接しているときの、あのそこぬけに明るい足立先生はそこになかった。
足立先生はふとわれにかえったように、
「あ、どうも」といった。
やっぱりへんな人だ、笑い出したくなるのをこらえながら小谷先生は思った。
「先生ときみちゃんを見ていると、そんなに話もしないのに気持が通じているでしょう。きょうのことだって、先生はなにもいわないのに、きみちゃんは悪いことをしたと思ってるし、すなおにあやまっているし……」
「さあ、それはどうかな」
足立先生はちょっときびしい声でいった。
「悪いことかな」
コップの酒をぐいと飲みほして、ことばをつづけた。
「あんたやいまのぼくにはわからんことやけど、六十円もらったとき、きみはどんなにうれしかったことやろ。こん夜、おとうちゃんがかえってこなかったら、ごはんがたべられへんというときに、たとえ悪いことをしてでも、もうけた六十円はどんなにありがたかったことやろな」
酔いがまわってきたのか足立先生の口調に関西なまりが多くなった。
「きみにおとなのことばが使えたら、きっというにちがいあらへん。わたしがいっしょうけんめい教えて、たった二十円の月謝をもらってどこが悪いねん。そういわれたら、あんた、かえすことばがあるか」
酔ってはいるのだろうが足立先生は静かにしゃべっていた。
「きみは悪いことをしたと思ってあやまってるわけやあらへん。すきな先生がきて、なんやら、やめなさいというているらしい。地球の上でたったひとりかふたり残ったすきな人がやめとけというとる。しゃーないワ。きみの気持はそんなとこやろ」
小谷先生はまっすぐ足立先生をみつめたままだった。