9 カラスの貯金
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 その日は諭の家へいってから、鉄三のところへ寄った。
 このごろ小谷先生は学校がおわっても、すぐかえりの電車にのらない。かならず、子どもの家を二、三げんまわって、そして鉄三の家へ寄ってかえるようにしている。そのために家へかえるのが一時間から、ときには二時間近くおくれる。夫のきげんが悪い。そこまで教師がする必要があるのかという。必要があるからしてるわけじゃない。おもしろいからやっているの、というと夫はあきれた顔をする。
 いろいろな職業がある。見聞きしていると小谷先生は自分でやってみたくなるときがある。パン屋でパンをつくらせてもらった。肉屋で肉のさばき方と、上手な肉の買い方を教えてもらった。サルベージの仕事など、話をきいているだけでおもしろかった。
 夫婦げんかの仲裁をさせられたこともある。そこで人間は同じことでもいろいろな考え方、感じ方をするものだとつくづく思った。いろいろな人のいろいろな話をきいていると、自分の人生がちっぽけなものに思われてならなかった。
 なんとなく大きくなって、なんとなく結婚した自分が、なさけなかった。
 夫にそのことを話してみたが納得できないような顔をしていた。ま、いいじゃない、どちらがよく生きるか競争しましょう、あなたもせいぜいわたしに刺激をあたえてね。若い夫はこまったような顔をしていた。
 小谷先生は鉄三の家のうらへまわって、
「鉄三ちゃん」
 と声をかけた。どこからかキチがとんできて小谷先生にじゃれた。キチはすっかり小谷先生になついてしまっている。鉄三はのそのそ出てきた。
「あなたのお友だちかわりない?」
 小谷先生はひととおりハエのビンを見わたした。ビンの上にラベルがきれいにはってある。それぞれハエの名まえがかきこまれてあった。小谷先生がかいたと思われる字、鉄三がかいたらしい字がまざっている。
 ラベルがはってあるだけなのに前とくらべるといっそう標本室らしく見える。小谷先生も、えらいもんだなと思っている。
「おけいこした?」と小谷先生はたずねた。
「う」——と鉄三はいう。
 やっぱり鉄三は「う」だけしかものをいわない。前とちがうところは小谷先生が、それをあまり気にしなくなったことだ。家にあがりこんで鉄三のノートを見る。みみずの踊っているような字というが、鉄三の字は踊っているなんてものじゃない。みみずはのたうちまわって、こんがらがって気絶している。だから鉄三のかいた字は小谷先生と本人しかわからない。
 小谷先生はハエの名まえをかいたカードを二十枚ほどこしらえてやった。小谷先生に用事があってこれないとき、鉄三はそれをノートにうつしてひとりで勉強する。きょうのように小谷先生とふたりのときはカルタをとるようにしておぼえるのだ。
「はじめよか鉄三ちゃん」
 鉄三の前に、そのカードをならべた。
「ほほぐろおびきんばえ」と小谷先生は読みあげた。
 鉄三はすぐそれをとった。自分が図鑑からみつけたハエなので、さいしょにおぼえたようである。
「みやまくろばえ」
 しばらくして、鉄三はとった。
「ちーずばえ」
 これも、じきとった。やはり字数のすくないのがおぼえやすいらしい。
「こぶあしひめいえばえ」
 これはだいぶ長い時間がかかった。
「きはだしょうじょうばえ」
 鉄三はなかなかとれない。ショウジョウバエの類は名まえがみな長ったらしいので、にがてなのである。
「これよ鉄三ちゃん」
 小谷先生は教えてやった。そういうとき、鉄三はすこし表情をかえる。くやしいようなはずかしいような、すこし、てれたようななんともややこしい顔である。
 小谷先生は鉄三の頭をなでてやる。いいよ、いいよ、いそがなくったって、ゆっくりおぼえればいいのよ。
「つぎいくよ、いい。こしあきのみばえ」
 鉄三は、いっしょうけんめいさがしている。
 小谷先生はハエがこんなふうに役立ってくれるとは夢にも思っていなかった。鉄三は学校にきてもなにもしない。教科書はひらかない、ノートはまっ白、友だちとも遊ばない、生きていることはたしかだが、学校にいるときの鉄三はまるで植物人間だ。
 それがハエをきっかけにして文字をおぼえだした。まだある。ハエの絵をかき出したことだ。図書館から借りていたハエの本をかえさなくてはならないときがきて、鉄三にそういった。鉄三はその夜、ハエの図をうつしだしたのだ。小谷先生はかわいそうになって、東京の出版社からその本をとりよせ鉄三にプレゼントした。そのときのことがきっかけで鉄三はハエの精密描写をするようになったのだ。線描はちえがあらわれるといわれている。鉄三の絵は、とても一年生の子どもがかいたものとは思えなかった。多少、形がいびつになるのはしかたがないが、ひじょうにこまかいところまでていねいにかいてある。
 たとえばハエの羽根の線を脈といっているが、イエバエの羽根の第四脈(羽根の内部に走っている脈で、頭側から数えて五番め)はくの字に曲がって第三脈にくっついている。ほかのハエの第四脈は第三脈と平行しているか、あるいはゆるく曲がっているのだが、おどろくことに鉄三はそんなこまかいところまで、正確にかきわけているのだ。
 はくじょうすると小谷先生は鉄三のことをちえおくれの子どもではないかとうたがっていたふしがある。鉄三の絵を見て、その考えを改めざるをえなかった。
 鉄三の飼育しているハエの種類も、本をもたせてから、きゅうにふえた。クロオビハナバエとかミヤマクロバエはひじょうにすくないハエだったが、鉄三はそれをつくだに屋へいって採取してきた。いま大切に飼っている。
「はい鉄三ちゃん、こんどはかくお勉強、きょうはいくつラベルをはりかえられるかナ」
 はじめラベルの字は小谷先生がみんなかいた。鉄三の字ではだれも読めないからだ。すこし、れんしゅうをして、まともな字になったら鉄三のかいたものとはりかえていった。どれくらいで全部のラベルがはりかえられるか小谷先生はたのしみにしている。
 小谷先生は人間の才能というもののふしぎさを感じる。鉄三があれほどハエの図を正確にかくのに、文字はふつうの子のように、れんしゅうした分だけしかうまくならない。情熱をうちこんだものには人間の才能はかぎりなくのびていくものらしい。
 かつて足立先生は、鉄三の中にタカラモノがかくされているかもしれないといったが、小谷先生はいまそのことがよくわかるのだった。
 まだ、どんなタカラモノがかくされているかわからないわね鉄三ちゃん、とかれの横顔を見ながら、小谷先生は心の中で話しかけた。
 遊びつかれた功たちが、鉄三のところにやってきた。
「オッス」と、四郎が小谷先生にあいさつをした。
「オッス」と小谷先生もむじゃきにかえす。
 どやどやとあがりこんできて、鉄三や小谷先生のそばにくっついた。
「おまえ、タダで家庭教師をしてもろてとくやなァ」
 と功は鉄三の頭をついた。
「だめ、勉強中だから、じゃませんといて」
 と小谷先生はこわい顔をした。鉄三は知らん顔をして字をかいている。そばでいくらわいわいさわがれても、いっこう平気だ。
「先生」
「ん」
「鉄ツン、はよ字をおぼえて、ハエの研究論文なんかかいたらええなァ」
「そうね。そしたら鉄三ちゃんは博士やから、あんたはカバン持ちになるのんよ」
「おれが鉄ツンのカバン持ちやてか、笑わせるなあ鉄ツン」
 鉄三の尻をポンとたたいて、功は笑いころげた。
「純くんがいないけれどどうしたの」
「みさえが熱を出してねてるので看病や」
「あれ、みさえちゃん病気」
「うん、まっ赤な顔してフウフウいうとる」
「そらたいへん、先生ちょっとおみまいにいってこよう」
 鉄三に勉強をつづけるようにいっておいて、小谷先生はみさえの家にいった。子どもたちもついてきた。この処理所の子どもたちは、たいていの家が共かせぎなので、昼間どこの家へでもかってにあがりこむくせがある。
「みさえちゃん、しんどい?」
「熱が三十九度もあるの」
 頭につめたいタオルをおいてもらったみさえはとろんとした眼つきで、それでも小谷先生がきてくれたのがうれしいのか、ちょっと笑った。
「純くん、えらいね」
 純は洗面器を前に、ひざこぞうをかかえてすわっている。
「遊ばれへん」
 ぶつぶついっている。みさえの枕もとにいろいろなものがおいてあった。チューインガム、ビー玉、シール、千代紙。
「これ、おみまい?」と、小谷先生はたずねた。
「うん、功ちゃんらがくれたん」
 酒ビンのふたやゴムのヘビ、こわれた時計のバンドなどもある。
「これもおみまい?」
 うしろで功たちがはずかしそうに頭をかいていた。
「先生もなにかおみまいするわ。なにがいい。みさえちゃん」
「アイスクリーム」
「バカ」と純がいった。
「おまえ、アイスクリームたべすぎて病気になったんやろ」
「みさえちゃん、病気のとき、アイスクリームはよしたほうがいいわ。先生がいいものをさがしてきてあげるからね。まっててね」
 みさえはこっくりうなずいた。
 小谷先生は子どもたちといっしょに、みさえのおみまいを買いにいった。
「なににしようかなァ」
 商店街をうろうろした。小谷先生のうしろに子どもたちが、金魚のうんこのようにぞろぞろくっついている。
「おれもちょっと熱があるから、なんかおみまいちょうだい」
 武男はあまえた声を出して、みんなにどやされた。
 けっきょく小谷先生はスズランによくにた小さな花と、六角形の和紙の箱にはいったチョコレートを、みさえのおみまいにした。なんだかつまらない気がした。
「あなたたちのおみまいの方がずっとすばらしいわ。先生のは、なんだかみすぼらしい」
 どうして、と子どもたちはふしぎそうな顔をした。
「だって先生のはお金で買っただけのものでしょ。あなたたちは自分で大事にしていたものをあげたのだから、その方がずっとまごころがこもってるわ」
「まごころよりチョコレートのほうがええ」
 芳吉は正直なことをいった。
 話しているうちに、子どもたちはそれぞれなにか大事なものをもっているらしいことがわかった。
「見せてほしいナ」
 と小谷先生がいうと、子どもたちはいっせいに眼をかがやかせて、
「見せてやるよ」
 とさけんだ。そして、われさきにとかけ出していった。
 小谷先生がみさえにおみまいを手わたしていると、大きな箱をかかえて功がいちばんのりした。
 小谷先生にはよくわからないが、功のあつめているのは機械のこわれたものらしい。ラジオとか時計はわかった。
「おれ、エンジン組み立てられるよ」
 功は得意そうにいって、ばらばらの金物を手ばやく組み立てた。小谷先生は感心してながめていた。
「功くん、それクロッキーするときにいいワ。また貸してよ」
「いいよ、貸してやるよ」
 子どもたちはつぎつぎ、いろいろなものをもってきた。ガラクタばかりなのだが、なかにはいろいろおもしろいものがあった。
「恵子ちゃん、それなに」
「なんやと思う。あててみ先生」
 功がよこからいった。
 ガラスにはちがいないのだが、さまざまな形だし、色もひとつひとつちがっている。きれいなピンクがかかっていたり、陶器のようにしぶい青があったりする。恵子はそれをたくさんもっていた。
「きれいなもんねえ。なんなのいったい、教えて」
「あのね先生、ビンがとけてできるんよ。ゴミの中にビンがまじっていることがあって、知らないで燃やしてしまうでしょ。そうすると長い時間焼かれていて、こんなのができるの。灰の中にまじってる」
 へえーと、また小谷先生は感心する。
「ひとつ、あげよか」
「だって恵子ちゃんの大事なもんでしょう」
「先生がほしかったらあげるワ」
「そりゃ、ほしい」
「じゃあげる」
 小谷先生はその中から、つよい緑の色をした石をもらった。
 浩二は発泡スチロールをあつめていたが、ただ、あつめるだけでなしに、それでたくさんのロボットをつくっていた。
「浩二くん、こんなすてきなもの、どうして学校の展らん会に出さないの」
 この作品をみれば、浩二のねうちがよくわかるのに、と小谷先生は村野先生のことを思ってざんねんでならない。
 ガラクタをながめていて、小谷先生はカラスの貯金ということばを思い出した。カラスは役に立たないものをあつめるくせがある。風船のやぶれたのやくつのひも、なんでも巣にもちこんでためている。
 ものをあつめるところはカラスの貯金ににているが、処理所の子どもたちは、廃品を利用してものを作る心を貯金している、と小谷先生は思った。
        






