21 ぼくは心がずんとした
小谷先生は黒板に「なに?」とかいた。
「きょうのつづり方の題は『なに?』です」
「なにいうてなんや」
と、勝一が大きな声でたずねた。
「なにいうてなんやわからへんから、なにです」
と、小谷先生がまじめな顔をしていったので、みんな大笑いした。
きょうは小谷学級の研究授業の日である。うしろに大ぜいの先生が立っている。小谷先生は学校の先生になってはじめて自分の授業を人にみてもらうのだ。だから緊張してこちこちになっている。足立先生のようにきらくにはやれない。
「みなさんの原稿用紙に、『なに?』とかいてください。それから、小谷先生は大きな荷物をさげてきました、とかいてください。みんなが同じことをかくのはそれだけです。後はそれぞれ勝手にかいてください。思ったとおりにかいてちょうだいね」
小谷先生はそういって、いちど廊下に出た。そうして、一メートル四方もあろうかと思われる白い布につつんだ大きな荷物を重そうにさげて、ふたたび教室にはいってきた。
「うわあ、おおきいなァ」
子どもたちは口ぐちにいった。
「大きいでしょう。さあ、なんでしょう」
「テレビ」と、勝一がさけんだ。
「ストーブや」
「せんぷうき」
子どもたちはいろいろなことをいっている。
「それじゃみんなの思ったとおりかきなさい。なぜ、そう思ったかというわけもかいておくといいつづり方になりますよ」
みんないっしょうけんめいかいている。鉄三だけはその箱をじっとにらんでいた。
「じゃ淳一くん、あなたのかいたのを読んでください。はじめからね」
淳一は立ちあがった。
「——『こたにせんせいはおおきなにもつをさげてきました。ぼくはなんやろかなとおもいました。みんな、テレビやとかストーブやとかいろいろいっています。ぼくはテレビかもしれんとおもうけど、あんまりはやくいってまちがったらそんをするから、わからんとかきました』……」
うしろで立ってみていた先生たちは思わず笑った。淳一らしい文章だと小谷先生も思った。
「それじゃ、この白い布をとりますよ」
白い布をとると、中からカラーテレビのダンボールが出てきた。
「やっぱりテレビ、ぼくのいうたとおり」
勝一がよろこんでいる。
「はい、つづけてかいてください」
しばらくして、小谷先生は、こんどは勝一を指名した。
「勝一くん、いまのところだけ読んでね」
「——『やっぱりテレビや。ぼくははじめにあてた。ぼくはとくいです。ぼくはじまんしたいきもちです』……」
淳一が首をかしげている。鉄三はあいかわらずじっと箱をみつめていた。
「じゃ、つぎ、いきます」
小谷先生はテレビの箱をやぶいた。するともう一つの箱が出てきた。その箱には夏みかんの絵が印刷されてあった。子どもたちはざわめき、うしろの先生たちは笑った。
子どもたちは、またエンピツを走らせた。
「テレビとはちがったようですから、勝一くんはどうかいたかナ。つづけて読んでちょうだい」
勝一は立って読んだ。
「——『せんせいはわるい、せんせいはぼくをうらぎった』……」
うしろの先生たちは大笑いだ。折橋先生は涙をこぼして笑っている。
「ごめんね。勝一くん。こんどあててね」
小谷先生は勝一のところにいって頭をなでた。
「箱の中を見てください」
小谷先生は箱のふたの部分をやぶいて子どもたちに中を見せた。新聞紙をくしゃくしゃにしてつめてある。夏みかんを一つ一つ新聞紙にくるんでつめてあるようにも見える。
「みんなだまされたらあかんでえ」淳一が大きな声でいった。
「ほんとよ、だまされたらダメよ。よく考えてかいてね」
どの子どもたちもしんけんだ。よそみをする子どもはひとりもいない。
このクラスもかわったな、とうしろで見ていた足立先生は思った。
「はい、こんどは道子ちゃん読んでください」
「はい。『わたしはりんごだとおもいました。まるいものがしんぶんしにつつんであるからりんごだとおもいました。なぜ、なつみかんじゃないかといったら、せんせいのめをみていると、せんせいがうそをついていることがわかるからです』……」
小谷先生は新聞紙をとった。新聞紙はただ丸めてあるだけだった。なつみかんの箱の中から、デコレーションケーキの箱が四つ出てきた。また子どもたちがざわめいた。
「ケーキか、せんせい」
「さあ」と、小谷先生はいった。
「みんなおなじものがはいっているの、せんせい」
照江がたずねたので、小谷先生はそうだとこたえた。
「先生ちょっとずるいわね。見るだけで中のものをあてさせるんだものね。先生、反省しました。こんどは音をきかせてあげます。どんな音がするかよくきいていてね」
そういって小谷先生は箱をふった。がさがさという音がした。四つの箱はみな同じような音がした。
「わかった」とたけしがいった。
「わかった」
「わかった」
あちこちで声がした。
「そんなにかんたんに、わかったの」
「ぜったい、あれや」と、たけしは胸をはってこたえた。
「じゃ、かいてちょうだい」
いわれるよりはやく、エンピツをもっている子どもがいる。小谷先生はうまい授業を考えたものだ。こういうちょうしで文をかかせていけば、知らぬまにたくさんかいていくことだろう。そのときそのとき、心ははりつめているのだから、よい文がかけるにちがいない。
「それじゃ、たけしくん読んでください」
「——『せんせいは、ぼくらをごまかそうとして、くろうしている。けれど、おとをきかせてくれたので、ぼくはいっぺんにわかってしまいました。ぼくはこころのなかで、じゃじゃじゃじゃーんといいました。はこのなかにはいっているものは、クッキーかかみにつつんだキャンデーです。あんなおとがするのはそれにきまっています。せんせいはぼくらをごまかしたおわびに、さいごにおかしをくれるつもりです。やっぱりこたにせんせいはええぞ。ぼくはこころのなかでヤッホーとさけびました』……」
またうしろで先生たちが笑った。小谷先生まで笑い出した。
「そう、みんなわかったっていってたけど、おかしだと思ったのね」
「ちがうの、せんせい」
たけしがひそうな顔をしてたずねた。
「さあ、どうでしょう」
「おかしやろ」
「おかしや」
おかしでなかったら小谷先生は子どもたちにリンチにされてしまいそうだ。
「じゃ、おかしかどうか、みんなにこの箱をさわらせてあげる」
四つの箱はそれぞれのグループにわたされた。子どもたちは箱をふったり、においをかいだりしている。とつぜん、ひとりの子どもが声を出した。
「なんかはいっている!」
「アホ、なんかはいっとるのははじめからわかっとるやん」
と、たけしがいったが、その弘道という子はそういう意味でいったのではなかったらしい。
「ほら、なんかなかでうごいとるやろ。ごそごそしてるやろ」
「ほんまや」と、みんなびっくりした。
箱をもらってすぐゆすっていたので、いままで気がつかなかったのだ。
「虫や」と、子どもたちは眼を光らせた。
「かぶと虫やで、きっと」
かぶと虫ならおかしよりずっといい。子どもたちはすっかり興奮してしまった。
エンピツをもっているあいだも、子どもたちは箱をにらみつけている。かたいものがぶつかるような音がする。子どもたちの血はおどった。
生きものだということがわかってから鉄三の眼は箱にくぎづけになってしまった。
「弘道くん、読んでください」
「——『かぶとむしや、ぜったいや。ぼくはいまかみさまにおがんでいます。かぶとむしにまちがいありませんようにといっておがんでいます。先生、ぜったいぼくにちょうだいね』……」
「やれやれこまったナ」と小谷先生はいった。
「さっき、ぜったいおかしといって、ちがってたでしょ。こんどもちがうかもしれない」
子どもたちは不安そうな顔つきになった。
「でもね。先生はみんなをいじめてよろこんでいるわけじゃないから、このへんでタネあかしをしましょう」
子どもたちは、わあっといってよろこんだ。
「いま、みんなの気持、どんなですか」と、小谷先生はたずねた。
「どきどきしてる」
「きぜつしそう」
「オシッコしたいきもち」
子どもたちはいろいろいっている。
「いまの気持をしっかりおぼえておいてね」
小谷先生はカッターで封のセロテープを切ってやった。
「いち、にい、さんであけていいわ。いい。いち、にい、さん」
子どもたちは眼もくらむ思いで宝の箱をあけた。いっせいにかん声があがった。まっ赤で元気のよさそうなアメリカザリガニが、子どもたちの眼の中にとびこんできたのだ。
小谷先生は、しばらく子どもたちをさわがせていた。
「みんなに一匹ずつあげます。大切に飼ってやってね」
「ヤッホー」と、たけしが思いきり大きな声でさけんだ。
どうやら小谷先生は子どもたちのリンチを受けずにすみそうだ。
「さあ、こちらを見て」と、小谷先生はいった。
「さいごをがんばってね。いままでみんなの心がいちばんさわいだのは、箱の中を見る前と、箱の中のものがなにだったのかわかったときですね。みなさんのつづり方のさいごに、そのときの心のようすをしっかりかいておきましょう」
はーい、と元気よく返事をして、子どもたちは机に向かった。
うしろで見ていた先生たちは、たいそう感心した。ふつう一年生は、かんたんな文でもなかなかかけないものだ。さあ、かきましょうといわれて全員がエンピツをもつなどということは、ちょっと考えられない。
教室のうしろに子どもたちの日記帳がたくさんおいてあった。どれもこれも手あかでボロボロになっている。そのことは子どもと小谷先生が、その一さつのノートの中でどれほど苦闘したか、よくものがたっていた。
太田先生はこの授業のはじまる前に教室にきて、その日記をひろい読みした。さとるという子どものかいた文を読んでひどく感動した。そして、この学級の子どもたちがすらすら文をかくひみつはこれだと思った。
「二がっきのまんなかへんになって、まいにちにっきをかくことになりました。あさ、はやくおきてせんせいにみてもらいます。あさ、はやくおきるのはつらい。にっきがはじまるとぼくはあそぶひまがありませんでした。すこしかくともうかくことがなくなって、せんせいから、もっとがんばりなさい、といわれました。つぎのひ、きのうより二ぎょうおおくかいて、もうおわり、ぼくはにっきはだいきらいとかいたら、せんせいがこんなことをかいてくれました。(さとるくん、にっきがきらいとしょうじきにかいたのはいいことです。でも、いまくろうしてたら、あとからきっと、よかったなとおもうようになりますよ。くろうというものはいいもんですよ。もっともっとくろうして、あなたのあたまをじょうとうにしなさい。ぶんをかくことはしんどいことです。せんせいでもひとばんぶんをかいたら、はががたがたになります。ごはんをたべるといたいです。さとるくんはぶんをかきおわったら、はがいたくなりますか。ならないでしょう、まだまだがんばれるとおもいます。)
ぼくはかくことがなくなったら、あちこちにいきました。いろいろなところへいくといっぱいかくことができました。ぼくはなまけごころがでてくると、せんせいのかいてくれたことをおもいだしてがんばっています」
小谷先生はさきほどから胸がどきどきしていた。鉄三がエンピツをもってなにかかいているのだ。なにげない顔をして、そっとのぞくと、鉄三はいっしょうけんめい文をかいていたのだ。
小谷先生はどうきがはげしくなった。
鉄三がエンピツをおくのを見とどけてから小谷先生はいった。
「できましたか」
「はーい」
おおかたの子どもは返事をした。
「だれのを読もうかナ」
小谷先生はまよっていた。はじめて鉄三が文をかいたのだから、それを読んでやりたい。でも、もしそれがわけのわからない文だったら、鉄三に恥をかかすことにもなりかねない。
どうしよう。小谷先生は頭がくらくらした。子どもを信じることだ、どこかでそんな声がした。そうだ鉄三ちゃんを信じよう。
「鉄三くんのを読みましょう」
小谷先生は鉄三の原稿用紙を手にとるといそいで眼をとおした。祈るような気持だった。
「ぼくわりとりとみたそれかだはこなかへりとりとみたまたりとりととみたあかいやつでたぼくわはながずんとしたさいらのんらみたいぼくわこころがずんとしたぼくはあかいやつすきこたにせんせもすき」
小谷先生は大きな声で読みはじめた。
「ぼくはじっとじっと見た。それから、はこの中までじっとじっと見た。赤いやつが出た。ぼくは鼻がずんとした。サイダーを飲んだみたい、ぼくは心がずんとした。ぼくは赤いやつがすき、小谷先生も好き」
小谷先生も好きというところへくると、小谷先生の声はふるえた。たちまち涙がたまった。たえかねて小谷先生はうしろを向いた。子どものだれかが手をたたいた。すると、あっちからもこっちからも拍手がおこった。拍手が大きくなった。足立先生も手をたたいた。折橋先生も手をたたいている。みんな手をたたいている。
教室は拍手で波のようにゆれた。