エピローグ
その日の朝はやたらと空が高かった。ハケではいたような雲が、かすかに空に残っていた。トンビだろうか、二羽の鳥がたわむれながら西の方へとんでいった。
基地で勉強していた子どもたちは、しばし手を休めて空を見た。
「高いなあ」
みんなあんぐりと口をあけて空をあおいだ。
「ちくしょう、あのトンビ、ええ調子やな」
「勉強せんとデイトしてるワ」芳吉がうらやましそうにいった。
トンビは豆つぶのようになり、しばらくして子どもの眼から消えた。
そのとき、バタバタという小型トラックの音がした。ゴミをはこんでくる車は大型トラックで音がちがう。子どもたちがふり向くと、荷物の上に、浩二がちょこんとのっている。顔中で笑って功たちに手をふっているではないか。
「浩二や」
「浩二がかえってきた」
子どもたちは総立ちになった。
「浩二!」
勉強どころでない。だれもかれもあわててかけだした。
功は足立先生のところにかけた。
「先生、浩二や。浩二のやつかえってきよった」
「え」
足立先生もびっくりした。立ちあがろうとして、よろよろとたおれかかった。あわてて功がささえた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
足立先生はしっかりした声でいった。
浩二は車からとびおりた。功にささえられてよたよた歩いてくる足立先生を見ると、ぱっとかけだした。
「先生」
浩二は足立先生にとびついた。
「おっと」
功がうしろから足立先生のからだをささえた。足立先生はあんがいしっかりした足どりで浩二をうけとめた。
「ふふふ……」浩二は笑った。
「ははは……」
足立先生は腹の底からこみあげてくる笑いに、自分自身をもてあましているようであった。
昼ちかく、小谷、折橋、太田先生が上気した顔でかけてきた。
浩二をかこんで基地にいるときだった。
「やったァ、やったァ」太田先生はとびあがってさけんでいる。
「また、ええことらしいぞ」
足立先生は子どもたちにいった。
「足立先生よろこんでちょうだい。署名が過半数をこえたのよ」
「ほんまかいな」
足立先生の顔がくしゃくしゃにくずれた。
署名が過半数をこえたということは、校区の半分以上の家庭が処理所の子どもたちの味方になったということだ。道すがら署名をとったのではない、同情で署名をしてもらったわけでもない、署名をした人は自分の足で歩いて仲間をふやしたのだ。小谷先生はそのことを子どもたちに、わかりやすく説明してやった。
「組合や議員さんのあっ旋で、きょう三時から交渉の手はずがととのったの。おかあさんたちは二百人くらいあつまってくださるそうよ」
小谷先生は子どもたちの方を向いていった。
「あんたたちも出席するのよ。子どもの言い分もきいてくれって要求したの」
「まかしといて」功は胸をはって力づよくこたえた。
「足立先生いける?」
「おれは死んでもいきまっせ」
足立先生も元気な声でこたえた。
小谷先生は、ふと浩二に気がついた。浩二がいる、浩二がいるのはあたりまえだ、だけどなんだかおかしい。
「あっ」と小谷先生は声をあげた。
「浩二くん、あなたかえってきたの」
浩二はにっこり笑ったのだった。
*
「出発!」
功は大声をあげた。大八車が動きだした。三日のハンストで足立先生のからだはふにゃふにゃになっている。自分のからだに骨がないような気がしている。そんな足立先生を大八車にのせている。
大八車は歌っているようだ。ゴロゴロ、ゴロゴロと。うまくはないけれど、腹の中にしみこんでくる歌のようだ。
鉄三は小谷先生の手をしっかりにぎっている。小谷先生はときどき鉄三の顔を見る。鉄三はちょっとはにかんでそれからすこし笑う。小谷先生は明るい顔で笑いかえして、鉄三の手をぎゅうとにぎる。鉄三もにぎりかえして、ふたりは笑ってしまうのだ。
バクじいさんはうれしそうだった。うしろからひょこひょこついてくる。キチに引っぱられるように、おっかなびっくりで歩いている。小谷先生と鉄三のやりとりがうれしくてしかたがない。金龍生や、わしは生きておってよかったわい、おまえとチェロをひきたいが、もうすこしまってくれよ、バクじいさんは金龍生と話をした。
みさえと恵子は折橋先生に手をもってもらって歩く。おしゃべりをして笑いながら歩く。折橋先生にからかわれて、みさえはふくれた。ふくれながら歩く。折橋先生のお尻をぶちながら歩く。
大八車はあいかわらず、ぶきような歌をうたっている。ゴロゴロ、ゴロゴロと。
功や純や、徳治や四郎に大八車を引いてもらっている足立先生は、てんぷらがくいたいのにまだ、てんぷらがくえない。けれど眼は明るくかがやいている。ひょっとすれば、きょう、てんぷらがくえるかもしれない。それで明るい顔をしているのかもわからない。
「なにいうとんや」
うしろで車をおしていた武男が、足立先生にたずねた。
「いやいや」と足立先生はごまかした。
足立先生は大八車の上で、ドングリコロコロの歌をうたっていた。ドングリコロコロでなくて、テンプラコロコロと武男にきこえたのだ……。
太田先生としげ子は恋人のように、よりそって歩いている。なにかひみつのことでも話しているのか、ときどきふふふ……と笑っている。芳吉がうしろからそれをひやかしていた。
そんな子どもたちを、いとしそうにながめながら、処理所の人たちは歩いている。
そんな先生をたのもしそうに見て、処理所の親たちは笑う。
大八車は、ゴロゴロのほかに、ギイギイという伴奏までつけはじめた。
浩二は足立先生のよこにいる。ときどき、足立先生に頭をなでてもらってにこにこして歩く。ドングリ眼を大きくひらいて、笑っている。
「いくぞォ」
功がひときわ声をはりあげた。
大八車はぐーんと速度をました。キチがそれにあわせてとびだした。バクじいさんはがくんと腰をおられてひっくりかえりそうになった。
「まってくれ!」
バクじいさんはひめいをあげた。もっとも子どもたちには、まってくれが、ファファときこえただけだったが——。
びっくりして車をとめると、バクじいさんはしぼんだ風船みたいな顔をしていた。顔の面積は半分になっている。子どもたちはおどろいた。どうしてきゅうにそんな顔になったのだ。
「ファファ、ファファ」
バクじいさんはなにやらいっしょうけんめいさがしている。そばにいた功の父は気がついた。
「入れ歯や、バクじいさん入れ歯を落としよったんや」
大笑いになった。みんなでさがしてやっと入れ歯はみつかった。水道の水であらって口に入れると、やっともとのバクじいさんにもどった。
鉄三は声をあげて笑った。小谷先生は鉄三の手を引いてたしなめているが、自分でも笑いをころすのにへいこうしている。
「出発!」
功はどなった。そんなにうれしそうに笑っているときじゃないんだ、なにもかもこれからなんだぞ、功のきびしい声はそういっているようだった。
出発——なんていいことばだろう、小谷先生は鉄三の手をしっかりにぎりながら、しみじみ思うのであった。
大八車はまたぶきような歌をうたいはじめた。